見出し画像

播州のおやさま「井出クニ」について

 天理教の歴史について調べていると出てくる人物に「井出クニ」が挙げられる。この人のことを調べはじめると驚かされることも多い。天理教では公式に名前が出ているのは高野友治の『天理教史参考年表』で、天理教事典でも巻末の年表の教祖30年祭の頃に“井出クニ謀反”と出ているくらいである。天理教の会長や信者の間ではあまり知られていないようにも思う。仮に名前くらいは聞いたことがあると言っても「異端」だとか「謀反」という言葉で片付けられているようにも思う。まずは概略を知ってもらうためにWikipediaの解説も読んでいただきたい。

「井出国子」wikipedia  (文字列をクリックするとWikiに飛びます)

 私が井出クニに興味を持ち始めたのは父が残した天理教関係書籍の中に芹沢光治良の本もあって、その中に何度も出てきたことと、教祖百年祭以降、やはり今の天理教はおかしいと思い、いろいろ調べる中で、これは異端でもないし、教祖三十年祭頃の教団の中であった最も大きな事件だと思ったからである。今ではインターネットで検索をかけるとかなり情報も出てくるようになった。そんな中、ある方にお会いして研究の参考にと『天理の霊能者』豊嶋泰國 インフォメーション出版社という本をいただいた。この本は今ではなかなか手に入らないと聞くが、天理教の信仰者で機会があれば読んでみることをお勧めする。この著者は自分の足で地道によく調べたものだと思う。なぜ天理教側では“井出クニ謀反”という扱いをされているのかもこの本を読めば見えて来る。
 『天理の霊能者』には井出クニの生い立ちや神懸かりの様子なども書かれている。 “井出クニ謀反” は大事件でもあったはずだが、どうして教内ではあまり知られていないのか、伏せられたような形になっているのかは、前回、紹介した『死の扉の前で』芹沢光治良を合わせて読めばだんだん全貌が見えて来る。“井出クニ謀反”についてちょっと『天理の霊能者』から引用するのでご一読願いたい。

 大正五年に神からクニに啓示があった。それは天理教の三十年祭に神が五日間だけ表に現れることになっているが、本部の前に神の姿を現さなければ神の言葉は嘘になるから、「どうかそのほう、天理教本部の神殿に姿を現してくれ」と頼まれたというのである。そこで二月十八日(旧一月二十六日)から二十二日までの五日間、本部へ出向いたが、気狂いだとか稲荷憑きだとかいわれて、ほとんど相手にされなかったが、神殿に居合わせた十七、八人に<振動>を与えて全員を跳ね飛ばすデモンストレーションを行っている。同二十三日中山みきの生家の前川家へ行った。 
(中略)
 同年八月十四日、ふたたび神の命令により天理教教会本部の教祖殿へ行き、自分の写真を同殿の大三宝の上に立てて東向きに座った。そして「これからわしがおたすけする」と宣言。そのため、本部側と押し問答となり、本部員の鴻田と春野の二人がクニを教祖殿から引きずり出すという事件もあった。本部ではクニを悪魔と見なし、二十一遍の悪魔払いのおつとめを行ったという。『天理教史参考年表』(高野友治編)にも見える「播州の井出くにむほん(謀叛)」である。

『天理の霊能者』豊嶋泰國 P123-P124

「井出クニ謀叛」については『死の扉の前で』芹沢光治良でP200―P204で三十年祭頃の天理教の様子とともに広池千九郎、松村吉太郎の私文書偽造容疑事件、「新宗教」の大平良平のこと、増野道興の話などと一緒に詳細に書かれているが、激動の時代だったのかと感じる。一方、不思議に感じるのは『天理教史参考年表』をまとめた高野友治氏がこれほど大きな事件でもあった井出クニのことを著書の中で見かけないことである。(筆者の不勉強で読んでいないだけなのかもしれないが…。)もし高野氏が書いた井出クニに関して書いたものがあれば教えていただきたい。二代真柱に配慮して、表向きには出していなかったのだろうかと勘繰ってしまう。

井出クニの肖像画(筆者撮影)

 私がこれらのことから、やはり実際に行って、そこにいる人にも話を聞いてみたいと思い、数年前に兵庫県三木市にある朝日神社を訪問してみた。その時には子孫にあたる女性の方がいろいろと部屋の中を案内してくれ、不躾な質問に対しても丁寧に答えてくださった。自分が調べてきたことと同じ回答で、更に天理教の方もよく来られるとおっしゃっていた。

クニが使っていた火鉢(筆者撮影)

 天理教から分派した教団の一つなのかとも考えたりしていたが、それはまったく違う。上記に挙げた本にも書かれているが、神の化身であり、宗教団体を作ったり、信者を作って信仰を強要したりするのが目的ではなく、ひたすら頼って来る人を不思議な力で助け、その見返りも受け取らず、播州でおたすけをしていたのである。そのことは子孫の方からも聞いたが、そのおたすけの話は芹沢光治良の著書の中でも数多く紹介されているし、『天理の霊能者』の中でも紹介されている。

 私はこれらのことから、総合的に考えて「本物」だったんだと思わずにはいられなくなった。なぜそう考えるかと言えば、天理教人が慕う教祖中山みきもそうであったからである。朝日神社の方は井出クニが天理教も含め、他の教団のようにならないように布教活動や組織だった教団運営を敢えてしないようにしていたようである。
 
 ひょっとして教祖中山みきもそう願っていたのかもしれないと、ふと思ったが、教祖の長男秀司をはじめ、主だった人々が教団を作り、本席亡き後はナライトさんを除き、天啓者なしで運営してきたことは皆が承知しているところである。時代的に応法の道を選ばなければならなかった時代の難しい問題ではあるが、人間が宗教団体を作ってしまうと神の望みとは違う方向に流れてしまうのではないかとも考えてしまう。しかし、朝日神社を訪問して思ったのだが、天理教のように布教活動を推進したり、信者を作るようにしなければ存続さえ危うくなるのではないか。しかし、これも神の世界の話で私ごとき人間が心配することではないのかもしれない…。
 
 今でも朝日神社では月次祭も行われているのだろうが、コロナ禍でどうなっているのかとも心配する。こういったことを調べ続けていると「天啓者」というものについても考えさせられる。神の目に適い、憑依して神の言葉を伝え、特殊な霊能力を持つようになるという現象は世襲されるものではないようだ。また神は一人の人間だけに降りるのではなく、同時期に別の人に降りることもあるようだ。小寒本席、他にも飯田岩治郎茨木基敬などの事例を調べていてもそう感じる。不思議なのは井出クニが“謀叛”を起こしたのは教祖30年祭(大正5年)のことであるが、須藤花井が翌年(大正6年)に生まれ、井出クニが亡くなる昭和22年に須藤花井が天啓を受けている。単なる偶然であるかもしれないが、神は天啓をつないでいたのかとも感じる。教内では上田ナライトは「人足社」として本席飯降伊蔵も認め、本席亡き後の10年ほど神の言葉をつなぐ役目を負っていたようだ。

 どうも天啓者というのは神の基準で選ばれ、人間にはわからない何かがあるのかと思える。仮にそうだとすれば、天啓のない今を生きる我々が「めどう」にすべきは混じりっ気のない純粋な教祖の教えであり、「理の親信仰」や「上級教会や本部のために尽くす信仰」ではないとも思えるが、いかがなものだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?