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古い天理教青年会機関紙『あらきとうりょう』を読んで、感じたこと…。

はじめに

 天理教二代真柱中山正善氏が管長に就任したのは大正14年で21歳の若さだった。教団のトップとして教祖の思いを世界中に広めようと、スケールの大きなことをどんどん実行されたようだ。現在の教内でも、二代真柱の業績を讃える人も多く、天理大学や憩いの家など、教育・医療の面でも先進的な考えを持って、それを実践していった人物なのだと思う。
 それだけに『死の扉の前で』芹沢光治良を読んだ時にはいろいろと衝撃を受けた。先進的な考えや、実践力では類を見ないような豪傑な方だったのかとも思える。しかし、人物的には繊細で思いやりもあり、カリスマ的な存在でもあり、孤独でもあったのかと思う。
 天理教青年会の機関紙『あらきとうりょう』の70号に面白い記事があるので、それを紹介しながら、いろいろ考えてみたい。

『あらきとうりょう』70号 特別企画 前真柱と青年会

 この70号の特別企画で「青年は海外を開拓せよ」というタイトルで、当時の本部員の座談会が開かれたようだ。時期は二代真柱が出直した翌年のようで、昭和43年頃だと思われる。座談会のメンバーも上原義彦、諸井慶五郎、堀越儀郎と錚々たる本部員であり、二代真柱より一回り以上も歳上の方ばかりである。まるで明治・大正時代の天理教の生き証人といえるような方々だ。司会も中山睦信(当時の青年会委員長)、今村俊三(青年会委員)というメンバーだ。二代真柱の追悼という意味で開かれたようでもあるが、その当時の様子が窺えて興味深い。

『あらきとうりょう』70号

青年会は事業団体のようだった

 大正期の教勢倍化運動の話や初代真柱が出直して、教勢がすっかり停滞してしまった話なども出てくるが、大正14年に正善氏が管長に就任して、天理教全体が若返ったように盛り上がったようだ。そして天理外国語学校(天理大学の前身)の設立や、文書布教のための印刷所(天理時報社の前身)の設立、また当時の国策にのって、海外布教の足掛かりとして満州天理村開拓などを次々と行っていった。この座談会の記事を読むと、勢いに合わせて若い力でどんどん推し進めていったのだと感じる。それだけに戦後、反省もあったようだ。

司会
前真柱が戦後、過去の青年会をふりかえって、事業のみ終始して、内に道を求めるという面において欠けた憾みがあったという意味のことを言われておりますが……。
上原
そのことは私も人から良く言われたことがあるんですよ。「青年会は事業団体ですか」ってね。しかし私は「そういう浅薄な見方をしてもらっては困る。人間は神様の御守護で生きているといったって、ご飯も食べれば肉も食べる。これと同じように一つの手段、方法というものをもって究極の目的に適うように事業をやっていかねばならん。したがって青年会は単なる事業団体でもなければ事業好きでもない。それは一つの布教の道行きなんです。」

『あらきとうりょう』70 24頁

 当時、青年会が中心になって、若い人たちがどんどん事業を進めていたのが分かるが、学校を設立したり、印刷所を独自で作ったり、莫大なお金がかかるようなことも、若い力でどんどん推し進めていたのだとわかる。今の時代とはスケールが違うようにも感じる。

『明治教典』や神道の祭式の話

 教内ではまだ『明治教典』を読んでいた頃、上原氏が文部省に毎日詰めて、宗教界の動きを調べていたようだが、文部省宗教課の人におふでさきを加味して教典を書き直してはと勧められたこともあったようだ。次の諸井氏の話が面白い。

諸井
 明治教典は味も素っ気もないような教典だけど、あれができたから独立できたんだよ。松村先生はあれに打ち込まれた。しかしあれができて政府に出すときは本部員同士でモメたことがある。僕の親父も、郡山の会長さん(平野楢蔵先生のこと)も、それに山中彦七さんが学者だったらしいが、「こんなものが天理教の教えか!」というわけで、松村先生と掴み合いをしたという話だ。これは松村先生から直に聞いた話だが、松村先生もこれには随分苦心された。こうしなけりゃ通らないんだから。だから、おふでさきもおさしずも伏せて、せめてみかぐらうただけは注釈を添えようか、なんていう話もあった。
上原
 松村先生の晩年のころに「先生、装束をつけて祭式をするようになったのは、どういうところからですか」とお尋ねしたら、「ナーニ、何でもありゃしないんだよ。神道に属している建前上、神道流にいかないとまずいからな」てなことでしたよ。
諸井
 とにかくなさけない時代があったね。月次祭などでも、お式が済んでおてふりをする前に大和舞というのを四人で榊を持って舞ってごまかしたんだよ。

『あらきとうりょう』70 26頁

 「大和舞」については天理大学の佐藤教授の論文があるので興味がある方は一読を勧める。
『大和舞「神の御国」について』佐藤浩司

 応法の道とはいえ、天理教は教祖の望みとは違う方向に流されてばかりいたのかとも思う。上原、諸井、堀越の本部員の方が座談会という形式で回顧しながら、気軽に話したことかもしれないが、生々しすぎる。
 
本部の中心にいたからこそ、知っている話でもあろうが、その時代、地方の教会で、飲まず食わずで布教をし、何でも御本部のためにと一生懸命、にをいがけ、おたすけに励んでいた会長や信徒がいたのかと思うと、タイムスリップして、その人たちに、この『あらきとうりょう』の記事を見せてあげたい気もする。
 装束を揃えるにも大金を払い、本部に倣えで、本部を立てることが信仰であったようにも思う。当時の天理教の底辺を支えていた多くの教会長・信徒がこれを読んだら、どんな気持ちになるのだろう。今でもそんな教会長がいるのだろうか?インターネットも普及し、天理教自体を俯瞰できる時代の若い後継者たちの心は、もう、そんな信仰から離れているようにも思うのだが…。
 

新型コロナは、やはり神の計らいなのか

 所属の教会には、いまだに、そういった装束も残っているし、コロナ禍に入る少し前まで、天理教式の葬式などでは仰々しく、神道式の装束を着て、葬儀を行っていたところもあったのではないだろうか。コロナ禍で世間一般では大きな葬儀をすることもなく、小さな家族葬が増えていると聞く。教内でも会長さんが教服を着て、時間短縮で、こじんまりと行うことも増えてきているようにも感じる。
 筆者は過去記事でも神道色を年祭ごとに外していくべきだと書いてきたが、「復元」が完全ではない上に、「復元」と言いながら、復元するのではなく、独自の封建社会組織を作り上げることばかりやってきたのではないかとも思っている。
 そのツケが新型コロナで一気に露呈し、見直しを迫られているようにも感じる。各直属のお返し教会の数などに、それが表れているようにも感じてならない。教団トップの身上、本部員子弟の不始末、甘露台倒壊事件など細かいことまで論えばきりがないが、神のせきこみであるようにも感じているのは筆者だけではないようにも思う。しかし、変えていくことができるのは教規の上からもお一人しかいないと思うのだが…。
 

アフターコロナに変わっていくのだろうか…。

 政府の方針で新型コロナが2類から5類に変われば、日本も変わり、夏の「こどもおぢばがえり」もまた復活するのだろうが、おやさとパレードもないのだろう。私はあのパレードには大きな違和感をずっと持っていた。一生懸命、練習をした鼓笛隊や管内の学校の吹奏楽の披露の場としてなら、歓迎だが、大音量のスピーカーで甲高い女性の声で「真柱様が~」というのを聞いていると、どうも北朝鮮の「将軍様が~」にダブって見えた。無くなったとするなら、これも神の計らいなのかとも感じる。
 
 ロシアも中国もそうだが、独裁というのは恐ろしい。一部の者たちが権力を握り自由にモノも言えなくなり、その為政者は正しいと思いながらも、民を苦しめる方向にもっていっているのかと思うと、自分を神だと勘違いしているのかとも思えてくる。
 強いリーダーやカリスマを持った人を望む人がいるが、それはあまりに人任せで自分は楽をしようという危険な考え方に感じる。皆が主体的に考え、リーダーを選ぶべきではないかとも思う。魂は一人一人のものであり、現世で親子であっても、世襲などで権力も引き継がれるべきではないとも考える。
 
 次期の真柱後継者も上記の「将軍様~」のようにならないことを祈る。そして周りの人も「真柱さまにおよろこびいただけるよう~」などと言わないようにしてほしいとも思う。教祖が教えたように、神は「うそ」と「ついしょう」が嫌いだったのではないか。喜んでもらい、勇んで働いてもらうのは「人間」ではなく、「神」であると思う…。
 
 話があちこちに飛んで、まとまりのない文になってしまった感があるが、お許しいただきたい。

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