島日記 老い心地 (再掲)
黒井千次の「老のかたち」を読む。
その中のエッセイのひとつ「老い心地」について。
「世に老い心地というものがあっていいのではないか、と思いついてからしばらく経つ。最初それは、頭のどこかを漂うぼんやりとした影に似たイメージとして現れた。なんとなく優しく柔らかな感じなのだが、捉えどころのないものでもある。」
こういうタイトルの本に手がいくということは、私も、もう老いに足を踏み入れている証拠だ。
ティールームで、六十代、八十代ほどの母娘だろう客がいた。
歳とった方の客が不注意で、水の入ったグラスを落とし、コーヒーが跳ねて娘の服にかかる。
老いた客は「手に当たったのよ」と一言。
すると、飛んできた店員と娘はさして気にかけるふうもなく処理する。
新しいコーヒーが運ばれるまで幾分とはかからず、何事もなかったように二人は向き合いコーヒーを啜った。
この寸劇を側で見ていて「老の心地」を考えたという。
あの老母の老い心地は悪いものではないだろうな、叱責を受けることなく、現状を受け入れてくれる環境が彼女を取り巻いていた。
そういう条件のもとでだけ「老い心地」は味わえるのだろうと作者は書く。
私だったらあわてふためき、娘にも謝るだろう。
申し訳なさに早々に退散しようとするだろう。
迷惑をかけることを悪と捉える、ひとり暮らしの偏見とはわかっているが。
ひとりで他人に迷惑をかけず老い進んでも、「老い心地」は楽しめまい。
人が老いていくことを自然だと認め、共有してくれる人が居る時にのみ、快い老いを楽しめるのではと結んでいる。
はたして作者の言う境遇だけが、老いのよい心地に浸れるのだろうか。
ひとりでいても、老いは心地よいと思う時はある。
それより、老いを甘受し、謝りもせず、平然としているのが気になってしまう。
所謂、認知症になれば謝ることも忘れてしまうのか。
そういう状態だとまた違ってくる。
読む限り、作者は普通の恵まれた老母としてみているようだ。
なんだか複雑な読後感のエッセイであった。
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