十、結婚

「あら、今日も遅刻。だめねえ。」
ふと都庁のともちゃんを思い出した。

引き上げられた出勤簿に釣られて総務課へ。
注意しながら笑っていた。

皇居前広場の昼休みも懐かしい。渋井とともちゃん、彼女の友人たちとの他愛ない会話。俺が上の空だってこと、見抜かれていたような気がする。俺はいつも、得意の政治論をぶっていた。呆れる渋井。

「あらそーお。何だか面白いわね。」
ともちゃんは笑っていた。

両国の花火大会にも、同じメンバーで行った。

会いたくなった。

「一度会いたい。」
電報のようなぶっきらぼうな手紙。

返事はすぐ来た。OKだ。
皇居前広場で彼女の退勤を待った。

それから、谷中や雑司ヶ谷の墓地が逢瀬の場所になった。日が暮れて人影は無い。だが薄気味悪いとは感じない。墓石に腰かけて話し込む。仏様も面食らっただろう。

帰りの電車を途中で降りる。もう少し話したい。池袋から江古田まで歩く。少しも遠いと思わない。

この娘と一緒になりたいが、きっと苦労をかけるだろう。帰り道はいつも悶々とする。その内、寝ても覚めても彼女の顔が頭から離れなくなった。

百人町の家に、彼女がひょっこり顔を出す。

「結婚してくれ。」
清水の舞台から飛び降りた。
彼女は一呼吸置いて頷く。

彼女の父親は猛反対した。当然だろう。アカにかぶれた無職の男だ。しかしこのことはずいぶん後になって知った。彼女は父親を土俵の外に押し切ったらしい。都庁の男たち何人にもプロポーズされていたのに。このことも後から知った。

仲人は渋井に頼んだ。形ばかりの結納。

俺の両親は何一つ嘴を入れない。入党も、結婚も。何も言わないことの優しさを知るのに、その後長い歳月を要した。

1953年11月、結婚した。
俺は二十八歳、ともえは二十五歳。

式はウチで簡単にやろう。

畑仲間の一人が日本橋で寿司屋をやっていた。「俺が握ろう。」
店を休業して来てくれた。

友人知人、畑の仲間、党の仲間たちもそぞろやって来る。さんざめく百人町の家。

花嫁と俺がかしこまる四畳半。お神酒を注がれる。三度ずつ口をつけるのよ。はいはい、それでいいのよ。はい、結構でした。三三九度が滞りなく行われる。

「あら、練習かと思ったわ。」
ともえが笑う。

「ヘンな式だなあ。」
俺も笑った。

八畳間では車座になって魚を囲む。渋井がいる。ともえの都庁の友人たちがいる。

党の仲間たちは議論好きだ。祝いの席は談論風発、留まるところが無い。理想を目指して一途に青春を燃焼させている、若い仲間たち。

父が挨拶をする。
「この度は、不思議なご縁で・・・。」

”不思議”か。そう言えばそうだなあ。

闇雲に走ってきて、ここにいる。どこをどうくぐり抜けて、ここまで来たのか。まだしばらく、暗中模索で走り続けることになる。

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