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『幻のレコード 検閲と発禁の「昭和」』補遺④

本書ではさまざまな表を作成したのですが、紙幅の都合ではなく校了までに省いた表も多々あります。
レコード検閲の傾向を把握する過程で、検閲されたレコードの数量を「レコード検閲件数表」にまとめましたが、図示はせず一部のデータを本文に活かすだけにとどめました。
本表は「時事年鑑」の各年に掲載された表を出典としています。「時事年鑑」の表に項目のあった団体歌は数量が乏しかったので「講義講演其他」に組み込みました。

レコード検閲件数

レコード検閲関連の統計はレコードの枚数別と種類別で数字を集計しておりややこしいのですが(また誤記がときどきあって数字が合わなかったりします)、傾向として1936年、1937年を頂点として検閲数が減少してゆくことが分かるでしょう。1940年に至って検閲数が4000枚台になるのは、レコード会社の社内審査が徹底していたことを示します。
 



「大菩薩峠」の一件

『幻のレコード』にはレコード検閲制度がはじまる前にさまざまな事情で発売中止になったレコードを挙げました。以下のエピソードは本書から省いた例で、原作者とレコード会社の関係性も窺えるのでここで紹介しましょう。
中里介山の「大菩薩峠」は新国劇で上演した澤田正二郎一座がニットーで6枚続きの大作としてレコード化しました。
「大菩薩峠 初編 芝新錢座浪宅の場」「大菩薩峠 次編 庵原村古寺の場」(458/63  1922年5月新譜)がそれです。(註1)
 新国劇での成功もあって前評判の高いレコードでしたが、落合四一の「発禁レコード受難史」(『話』1936.9)によれば、いざ発売したところ原作者の中里介山から「発売中止にしろ」と猛烈な抗議が来たそうです。抗議を受けてニットー側は中里に「著作権料ならどれだけでも払うから販売を続けさせてくれ」と頼んだのですが中里は
「金ぢやござらぬ!中里介山は男でござる!」(「発禁レコード受難史」)
「金は不要だから発売を中止せよ、沢田へ支払った吹き込み料だの雑費だのがトントンになったらすぐさま発売中止のこと」(王桂馬「鳴らせんレコード物語」:『「週刊朝日」の昭和史 事件人物世相第1巻』)
 とけんもほろろの態度。ニットーはそこで「大菩薩峠」のセットを発売中止にして原盤を粉砕したといいます。(註2)
 ところがです。「大菩薩峠」のレコードは大正年間を通じてニット―タイムスのカタログに掲載され続け、1929(昭和4)年5月改訂の総目録になってようやく姿を消しました。その間、1924(大正13)年には文部省推薦レコードにまでなっています。落合四一の筆致では発売されてすぐに抗議が飛んできたように思われますが、あるいは原作者の申し立ては1929年になって起こったことなのかもしれません。しかし澤田正二郎の「大菩薩峠」6枚組という目立つセットが発売されてから数年間も中里介山の目に触れないというのも不自然な話です。「鳴らせんレコード物語」にはレコード原盤を破壊した後日談が載っています。

“最近筆者は手持ちの「大菩薩峠」があまり古くなったし。あるいは一組くらい残っているやも知れず、また、あるいは原盤があったら一組だけ、費用おしまずプレスして貰おうと、ニット―側へ極秘に交渉したところ、文芸部長の木村精曰く「もってのほかです。ことごとく原盤破壊で、会社にも一組さえ残っていません。もしズルく立ち廻るなら、百組や二百組プレスして、当時の残品として売れば、沢正なき今日、十円にでも十五円にでも売れるでしょう (昭和九年当時、SP盤一円六十銭)。何しろ中里介山先生の抗議態度たるや実に厳然として犯すべからず、かつまた聖らかなものでしたからね” (註3)

 この書きぶりからみると澤田正二郎の「大菩薩峠」が廃盤になって原盤も破棄されたのは事実のようですが、その時期は依然としてもやもやしています。この記事が書かれたのは1934(昭和9)年のことだからです。可能性として考えられるのは、原作者の抗議で原盤を破壊したのはその通りだがすでに相当量プレスされていてその在庫が残存していたのではないか?という疑いです。その在庫が払底したのが1929年なのでしょう。介山も「沢正に支払った諸経費がトントンになったら発売中止にしろ」と言っているので、それを言質に目録に載せ続けたことが考えられます。ニットーにいわせれば澤田正二郎に支払った吹込料がなかなかトントンにならなかったのでしょう。

 澤田正二郎大一座がレコード化した二年後、こんどは東京レコードが京山呑風の浪花節「大菩薩峠」(3114  1924年7月新譜)を発売しました。このときの中里介山の抗議は迅速且つ強硬だったようで、翌8月新譜月報に「原作者中里介山の意志を尊重して原盤を廃毀しました。次の機会に目録面からも抹消致しますから御諒承を願ひます」と告知を出して廃盤にしました。見ようによっては在庫分をお早めにお求め下さい、と煽っているように見えなくもありません。

(註1) 録音に参加したのは澤田正二郎、田中介二、金井龍之介、久松喜世子、澤井光代。
(註2) 「発禁レコード受難史」の落合四一は作詞家・伊藤松雄(1895-1947)のペンネーム。落合四一の名は主にニット―の流行歌の作詞に用いられた。この小文と週刊朝日の「鳴らせんレコード物語」は内容が酷似しており、ライターの王桂馬も伊藤松雄の変名と思われる。
(註3) 昭和九年当時のレコードの標準的な価格は正しくは1円50銭。



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