「押すやつ」の話

すべての飲食店に、あの「押すやつ」を導入してほしい。丸みを帯びていたり角ばっていたりする、それ単体で独立していたり占いマシンと合体していたりする、飲食店で店員を呼ぶときに押すやつのことだ。わたしの快適な外食は、それの有無にかかっているといっても過言ではない。

「すいませーん!」が届かないとき、人は大変に傷つく。店員を呼ぶ権利を十分に有していて、それを行使しようという正当な願いが却下されたのだ。店員に届かず、ただ店内にこだまする「すいませーん!」は、自分の脳内で「(声の通りが悪くて)すいませーん!」に変換される。気分が落ちていれば「(生まれて)すいませーん!」になるかもしれない。仕事やプライベートでつらいことがあり、憂さを晴らしに来た飲み屋で「生まれてすいませーん!」と叫ばされるのだ。太宰治でも耐えられまい。

まるで凄腕のスナイパーのように、どこからでも「すいませーん!」を店員に届かせる人がいる。我々のように店員の姿を確認し、それほど忙しそうじゃないな、いまならいけるな、と考えを巡らせ、目を合わせながら声をかけるような真似はしないのだ。スナイパーはただ自席から叫ぶだけで、なんならビールジョッキを片手で持ちながら店員を呼ぶのだ。どこで習ったのか教えてほしい。

安い居酒屋チェーンなどでは、「昔のiPadって、これくらい分厚いかったんだよ」という嘘がつけそうな、注文用のタッチパネル付き端末が置いてある。あれはあれで賛否両論である。先日わたしが行ったチェーンの中華料理屋では、隣の客が「俺が役員ならこんなの採用しないね」とのたまっていた。「居酒屋みたいに何度も何度も注文するならコレはいいけど、こういう店だと注文は一回だけだから、逆に不便」だと言う。彼が役員クラスに有能なのかは置いといて、その意見には納得できる。

注文用端末はともかく、「押すやつ」を積極的に導入していただきたい。しかしどんな事柄にも、反対の意見が存在する。

「押すやつ」反対派の意見として、「冷たい感じがする」というのがあると思う。客と店員の、人と人としての温かい交流を大切にする気持ちはわかる。十分にわかる。が、「生まれてすいませーん!」と叫ばされている者のことを想像してほしいのだ。誰かの温かい交流のせいで、誰かの実存が消滅の危機に瀕しているのだ。「押すやつ」で呼んだ店員と温かい交流をすることは可能だが、「押すやつ」が無いせいで失いかけた実存は、そう簡単には元に戻らないのだ。

人が「押すやつ」を押すとき、「押すやつ」もまた、人を押しているのだ。「生まれてすいませんなんて言うなよ」と、そっと指を押し返してくれるのだ。

次回の更新は12月6日木曜日、正午です。

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