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パン屋で落ち込んだ話

いろいろとあって疲弊している。手書きなら「弊」の字をあきらめるほどの疲弊だ。とにかくなんのやる気もなく、健康を保つだけで精一杯で、すこしでも暮らしを彩ろうと必要かどうかわからないほんのすこし高価なものを通販生活でうっかり買ってしまって、後悔して落ち込みたくないから積極的にそれを使用し、結局便利に使っている。

三ヶ月ほど旅に出たいが、まだ一回目の接種すらできていない。

とかく心がくしゃくしゃで、戻す前の高野豆腐のようにひなびているから、傷つかなくてもいいことに傷つく。つい最近の例は、パン屋でおっちゃんが四苦八苦していたことである。

昨年の春頃から、日本中のパン屋はビニールの個包装をはじめた。客一人ひとりがトングとトレイを持ち、さあ狩りのはじまりだとトングをカチャカチャ鳴らしても、そこにあるのはきっちりと包装された「商品」であり、「獲物」性は低い。パックの魚を釣っても楽しくはないが、いまは仕方がない。

しかし近所のパン屋には、なにかの事情で個包装されない商品があって、それらは群れごとふた付きのプラケースに収納されている。いつまで使うのかわからないから、そのケースも手製の適当なものだ。

パン屋におっちゃんがいた。50代後半で、スーツ姿だったと思う。おっちゃんはどうやらソーセージパンが好きなようで、プラケースに収納されたそれを取り出すため、表示通りにケースの前面のふたをトングでつかみ、開けようとした。

だが、ふたはぐにゃぐにゃと曲がっても、口を開けようとしない。ソーセージパンを食べたいだけのおっちゃんをせせら笑うかのように、台形のふたは口元をゆがめるだけだ。おそらく力のかけかたが違って、ドアでいう蝶番のあるほうは下部なのに、おっちゃんは上部と勘違いしているのだ。だが、それを教えてあげようにも時間が立ちすぎており、ここでわたしが登場してしまったら、「あなたがソーセージパンが欲しくて奮闘しているところ、わたしはじっくり見ていましたよ」と伝えることにほかならない。おそらくバブルあたりから働いてきた人生の先輩に、そんな恥辱を与えることが許されるのだろうか。

そしてついに、最悪の局面を迎えた。カラン、とふたが落ちた。蝶番ごと外れてしまったのだ。

おっちゃんが最終的にソーセージパンを手にできたのか、わたしは知らない。その瞬間に目をそらしたし、わたしはもう、このことを忘れたいからだ。

おっちゃんにも父や母がいるだろう。おそらくは幼少期、おじいちゃんやおばあちゃんに遊んでもらったこともあるだろう。すくすくと愛を受けて成長し、友達と肩を組み、恋人と抱き合い、鉛筆やノートや革靴をすり減らしてきたのだ。学生時代から交際していた妻との間には息子と娘がいて、ふたりとも結婚して一息ついて、「そろそろお前と旅行でも行きたいな」と話していたころに疫病が流行りだした。そして仕事帰り、明日のパン買っておいてと妻に頼まれ、妻の好きなもちもちアンパンをとり、その次に自分の好きなソーセージパンを取ろうとして、カラン、だ。

カラン、じゃないだろう。ふざけるな。懸命に日々を重ねてきた人間になんたる仕打ちだろうか。パン屋が悪いとは言わない。もちろんおっちゃんにも罪はない。わたしはもっと、大きな者に問うているのだ。

わたしはなにもかもどうでもよくなって、早々にパン選びを切り上げ、適当に二種類ほど買って外に出た。エコバッグ。アルコール消毒。出口専用。36.3℃。

次回の更新は4月10日(土曜日)です。


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