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物語を読むことと地図を描くことの話

毎日毎日小説を直している。出版される見込みがうすいのに、だ。文藝賞のこれまでの応募総数を考えれば、倍率は約2,000倍。つまり2,000分の1で成功する確率の試みに一年弱の時間を費やしてきたのだから、これはもう「道楽」や「酔狂」と表現したほうが正確だ。まちがっても「苦節」ではない。そんなに高尚なものではない。

だから当然、物語とはなにか、ということをよく考える。「脳科学から考える名脚本」的な本も読んだ。集団で生き延びることを決めた人類は、常に物語を必要とする。それはわかった。よくできた物語は常に受け手の注意を引き続け、小さい葛藤(「対立」なども含む広義)とその解決を繰り返しながら、全体では大きな葛藤とその解決を提示する。それはわかった。それはわかったのだが、どうすればおもしろい物語を創作できるのかについては、ほぼ「がんばれ」としか書いていなかった。そんなこと最初からわかっている。

唐突だがここで、「シェンムーⅡ」の話をしたい。「シェンムーⅡ」とはセガが20年以上前に発売した、ドリームキャスト用のゲームソフトである。わたしはこの「はやすぎた傑作」のなかに、物語の本質を理解するヒントがあると今週気づいたのだ。

「動詞からゲームが生まれる」という金言があるが、「シェンムーⅡ」(以下「Ⅱ」)の核になる動詞は「父を殺した仇敵を倒す」であり、さらにはその目的達成のために、下位に属す動詞が無数にある。それはたとえば「香港に行く」であり「働く」であり「情報を調べる」であり、「道を覚える」である。そうなのだ。武道家の父を殺した後ろ髪の長いチャイニーズマフィアを倒すためには、架空の香港の道を覚えねばならないのだ。

C地区に行きたいとする。C地区に行くためには、B地区の南側のアパートの右の細い道を通る必要があるとする。ただし、その南側のアパートは左右に細い道があり、B地区には北側にもアパートがあるとする。さらに自分はいまA地区におり、A地区とB地区をつなぐ歩道橋は、B地区の北側に出るものとする。そして最悪なことに、両アパートは外観が酷似しており、看板の建物名は粗いポリゴンでつぶれている。だから父の仇を討つために香港までやってきた主人公は、北側のアパートの右の通路が行き止まりになっていることに気づき、何度も途方に暮れるのである。

だが人間は学習する。ミスの頻度は緩慢だが不可逆に下がっていく。香港の路面にでかい矢印でもあるかのように、アウトインアウトで正しいルートを疾走して目的地に着く。もはや迷うことはなくなり、道を完璧に覚えたことに気づく。いまなら地図だって描ける。描いてみるとD地区とA地区は隣接している。あれ、もしかしてと思いD地区の適当な路地からA地区の方向に向かうと、見慣れた街並みが主人公を包む。こことここ、つながってたのか!

わたしはコントローラーを持ちながら、大ぶりな果実の成る場所を覚えて満足する原始人になった。そしていま、小説を通じて物語と格闘するなかで、「物語を読む」とは「地図を描く」ことなのかと思いはじめている。

ではそれがそうだとして、どうすればおもしろい物語が書けるのかと問われれば、わたしはこう応えるしかない。がんばる。その動詞だけをいまは信じたい。

次回の更新は3月13日(土曜日)です。

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