ゴキブリを無視した話

銀座でランチを食べた。「シリアルキラー展」の会場近くの、一見でも入りやすそうな店だった。

店内に一歩足を踏み入れると、若い女性店員が席に案内してくれた。元気すぎず暗すぎもしないその雰囲気に、わたしは梅雨雲がほんの一瞬裂けたときのような爽やかさを覚えた。いい。きっとこの店は当たりだ。

懇切丁寧に日替わりメニューの内容を説明してくれたので、せっかくだからと日替わり定食Aを注文した。会計時の混雑を避けるためか、前金制である。この効率性もいい。わたしが千円札を渡そうとすると、彼女はもう百円玉を手に握っていた。すばらしい。明るくて親切なだけでなく、彼女には先読みして行動する能力も備わっているのだ。「どうか、時給1,200円くらいもらっててくれ……!」と願いつつ、わたしは釣りの100円をきっちりと受け取った。まだなにも口にしていないが、やはりこの店は当たりだ。

平日の正午前ということもあって、どんどん客がやってくる。おそらく近所に勤めているのだろう。上司に怒られ、取引先に詰められ、後輩にはバカにされ、いざ書類を作ろうと思ったらWindows Updateに見舞われ……。ストレスフルな平日のなかで、この店に来るのが楽しみなのだろう。自然な笑顔で入店する彼らに、計三人いる若い女性店員たちは「お久しぶりですね、お元気でしたか?」などと声を掛ける。

どこまで「当たり」なんだと思いながら、わたしはメニューを見返していた。「ごはん・味噌汁・お新香・小鉢・サラダは食べ放題です」とある。入店時にはわかっていたことだし、それが入店を決めた大きな理由でもあるのだが、やはり感嘆せざるを得なかった。このサービスとこの価格、そしてこの店内の雰囲気。絶え間ない試行錯誤、そして数々の苦難を乗り越えてこの店をここまでのものした店主や店員の熱意を想像すると、わたしの目頭が熱くなった。わたしはこのとき、「まず最初にサラダを二皿食べよう」と心に誓ったのだった。

しばらくすると、わたしの注文した日替わり定食Aが届いた。Bの秋刀魚の塩焼きと迷ったが、Aの天ぷらにしてよかった。外食ではなるべく、自分では作れないものを頼むタイプなのだ。

天ぷらに熱視線を注ぎつつ、わたしはまず小皿に入ったサラダを口にした。うまい。常温のサラダ菜の甘みが、少しだけスパイスの効いたドレッシングによって引き出されている。よく噛んで平らげたあと、わたしは遠くにいる店員に目を合わせ、空の小皿を持ち上げながら「すいません、おかわりを」と明瞭な発音で伝えた。先程とは別人の店員が「サラダ?はーい」と返答し、サラダの入った小皿を持ってきてテーブルに置き、空いた小皿を持っていった。皿ごと替える。一見洗い物が増えて大変そうだが、このほうが効率的なのだろう。往復も一回で済む。わたしは二杯目のサラダを食べながら、「サラダをおかわりする」という行動の大人らしさに酔っていた。

サラダを完食したあと、わたしは天ぷら、ごはん、小鉢(ひじきの煮物)、再度ごはん、お新香、水、味噌汁と順調に三角食べ(角は三どころではない)を進めていた。すべてのメニューがちゃんとおいしいことに感動していると、あるものが視界に入った。

まさか。うそだろ。そんなわけがない。だが現実は冷たい。わたしの純情を打ち砕くように、「それ」はカウンターのテーブルを軽快に走っていた。きっと見間違えだろう、あれは「それ」ではなく、飛蚊症の症状が出てそう見えているだけだ、今日は疲れてるからな、と自分を騙そうとも思ったが、あいにくおいしいご飯で元気いっぱいである。認めよう、あれはゴキブリだ。ちっちゃいゴキブリがカウンターの上を走っているのだ。

読者諸兄なら、こんなときどうするだろうか。虫の苦手な諸兄なら、すぐに店を出るだろうか。紳士的な諸兄なら店員にこそっと伝え、陰湿な諸兄なら写真に撮って店名を出してツイートするだろうか。わたしが選択した行動は、「誰にも気づかれないうちに殺し、証拠を完璧に隠滅する」ことであった。

わたしはこの店のことが好きになっていた。厨房・フロア問わず店員には気持ちよく働いてもらいたい。どんなに努力しても衛生管理には限界があるのに、わたしがもし指摘をしてしまったら、彼らはどうなってしまうのだろうか。あの黙々と調理をしている、過去に古傷のありそうな、でもいまは立派に更生したかのような板前の未来を奪う権利がお前にあるのか。そう自問しながらわたしは、カウンターに設置されていた紙ナプキンをつかみ、捕獲のフェーズに入った。

ゴキブリは速かった。そしておそらく若かった。32歳の、おいしいご飯で元気いっぱいの人間には敵わなかった。無慈悲なゴキブリは、わたしの隣の客の前まで足を伸ばし、その姿を見せつけた。

しかし隣の客は、なんの反応もしなかった。見えていないはずはない。見えていないことにしたのだ。その瞬間、わたしとその客は共犯となった。

彼とは会話することはおろか、目も合わしていない。だがこれだけはわかる。わたしたちにとっては、事実より愛のほうが重かったのだ。あの日わたしたちは、ゴキブリなど見ていないのだ。

次回の更新は7月20日土曜日です
(梅雨で体調を崩した場合、延期になる可能性もあります)



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