あなたを肯定してくれる人~古今亭文菊 百年目 鈴本演芸場~

文菊師匠は、40歳を迎えるにあたって、大きな指針として『百年目』を選んだのではないか、と私は思った。自らの体力を大ネタを演じることに合わせに来ているという印象を受けた。これから先の10年、20年、30年に向けて、大きな基礎を作り上げようとしているのではないか。それほどに凄まじい一席であったし、とてもネタ卸しとは思えないほど仕上げられた一席だった。

恐らく、今後は大ネタを演じるために地盤を固めて行くような気がする。いずれは真景累ヶ淵や塩原多助一代記とか、牡丹灯籠とか、長編において無類の真価を発揮していくのではないか。そう思ってしまうほどに凄まじい演目であると同時に、もはや30分ネタでは他の追随を許さないほどの段階にまで、自らを高めようとしているような、凄まじい気迫のようなものも、私は感じてしまったのである。もしかすると、それは私の願望に近いかも知れないが、初めて1時間を超すほどの大ネタを聴くことが出来て、文菊師匠の見えない決意を感じてしまったのである。

同時に、もはや15分でも物足りないくらいに文菊師匠にどっぷり浸れる演目に接したいという欲求が生まれてきた。1時間でも2時間でも、語り続ける文菊師匠を体験したいという願望。何とも我儘な願望であるが、それほどに『百年目』を演じた文菊師匠は、今までとは明らかに違う次元に達した感じがあった。

誰も到達したことの無い未知の領域へと進む決意と同時に、人間らしく酒を酌み交わして遊ぶことにも同じくらい全力であるというような、文菊師匠の見えない思いを勝手に感じ取ってしまった『百年目』。もしも今、見逃したら絶対後悔する。そんな次元に文菊師匠は達しようとしている気がする。あくまでも私の個人的な意見ですが、明らかにギアが変わった文菊師匠。

https://engeidaisuki.hatenablog.com/entry/2019/02/11/111842

目標を据えた一席~はなし亭 2019年1月28日~
森野 照葉 ブログより

 2019年1月28日。本所で古今亭文菊の『百年目』を見てから、早三年の月日が経った。同じ年の年末頃に、武漢では謎のウイルスが発見され、それはやがてコロナウイルスと呼ばれるようになり、翌2020年3月末にかけて、世界中がコロナショックに見舞われ、今なお、世界中がコロナウイルスと向き合いながら生活することを余儀なくされている。
 日本においては、いまだにマスクを外すことができない状況だ。どこへ行くにもマスクをしなければならず、マスクを付けずに入店することが許されない場所ばかりになった。変化というものは、それが一度起こってしまうと容易に元に戻ることのできないもののようだ。日本にいると、それを強く感じる。みんながやっているから、お前もやれ、という無意識の圧力を。
 だからこそ、人は決めなければならない。
 コロナ前の状態に戻ることを信じて行動をするべきか。
 それとも、コロナを受け入れて行動するべきか。
 誰に文句を言ったところで、個人の力は知れている。
 であれば、今は静かに状況を受け入れながら、自分にできる行動をするべきではないだろうか。
 広く世間を見渡せば、口にするだけで何も行動をしない人間の方が多いように思える。喧々諤々、膝ならぬ指をあくせく動かして、結局はブームがされば関心を失ってしまうような、ひと時落ちてきた餌に群がって、食いつくすと去っていく虫のような連中が多いように思えるなかで、僕は自分にできることを一つ一つやっていく。
  上野鈴本演芸場で、3年ぶりに古今亭文菊の『百年目』を見た。
 およそ3年前に記したことから、どれだけの心境の変化が起こったか。自分自身で読み比べてみることが面白いだろうと思い、この文章を執筆する。

『百年目』のあらすじについては、引用した記事及びその他ネット上の情報に任せる。私が書いた

『文菊師匠は、40歳を迎えるにあたって、大きな指針として『百年目』を選んだのではないか、と私は思った。自らの体力を大ネタを演じることに合わせに来ているという印象を受けた。これから先の10年、20年、30年に向けて、大きな基礎を作り上げようとしているのではないか。それほどに凄まじい一席であったし、とてもネタ卸しとは思えないほど仕上げられた一席だった。』

 という箇所は、7月上席鈴本演芸場の演目を見ると、当たらずとも遠からずであったと思う。振り返りも込めて、以下に、本興行における文菊の演目を記す。

初日 稽古屋
二日目 鰻の幇間
三日目 お直し
四日目 定休日
仲日 淀五郎
六日目 包丁
七日目 居残り佐平次
八日目 心眼
九日目 百年目
千秋楽 猫忠

 稽古屋には、文菊の声質と所作の美しさが誰にも真似のできない『品』によって確立されているように思えた。先を生きる名人達や、追い越せ追い抜けと育ってくる後進に対して、もはや独自の道を開拓し、その道を走ることすらできない状況を文菊はこの一席で作り上げたように思う。安易に唯一無二という言葉はふさわしくないかもしれないが、そう言っても決して過言ではないほどに、文菊の『稽古屋』の明るさと面白さは際立っている。落語の世界の登場人物が放つ間抜けさと、稽古を付けるお師匠の厳しさに対して、それを真に受けずに突き進む男との対比が、明るくて突き抜けていて爽快だった。
 鰻の幇間では、その明るさはさらに突き抜けていく。幇間という職業が背負う哀しくもおかしき業を、文菊は余すところなく表現していた。そして、寄席ならではのハプニングをも味方につけ、全力で幇間の哀しくもおかしき業を表現していた。
 文菊の幇間は、現状を良いように捉えているときと、それが次第に悪いように思えてきたときの変化と、最終的に悪い状況に陥ったと認識したときとで、心と態度の移り変わりが非常に鮮明で面白い。
 ご馳走になる大将を信じて、多少の粗に文句を付けず、すべてを受け入れた幇間が後半でまるっきり態度を変えるのだが、変えた後の爆発力は天井知らずの面白さである。きっと、文菊は普段も何か心に抱えるものがあって、それを幇間に重ね合わせて爆発させているのかもしれないと思うと、可愛らしさがあって私は好きだ。
 お直しは、それまでの二席とはがらりと雰囲気が変わる。
 女性活躍推進の時代にあって、時代にそぐわないと言われても言い返すことのできない酷い話である。そういう時代もあった。そういう時代の物語であって、他意はないという気持ちで見ることが重要である。それでも受け入れられない人が世の中には数多いるであろうと思えるほど、女性にとっては受け入れられないお話である。
 お直しも、私は本所のネタ卸しで見ている。
 何といっても素晴らしいのは、花魁として華やかな時代を過ごした女性が、惚れた男の博打癖に巻き込まれて生活が立ち行かなくなり、なんとか生きていくためにケコロという酷い商売をすることを受け入れ、覚悟の紅を引く場面である。
 息を呑むとは正にこのことで、クズな夫のために、嫌々ながらも化粧をし、夫だけでなく、観客をも唸らせるほどの美しい変化を表現をする場面の所作で、見る者はぐっと引き込まれる。
 どれだけ老いても、化粧をし、男を魅了する女には、それまでに築き上げた色気というものが漂うものなのかもしれない。また、数多の男をもてなしてきたからこそ見抜ける慧眼。何から何まで妻に頼る夫の情けなさ。
 夫婦仲と言えど、そこには一言では語ることのできない秘密があるのだろう。今では、男も女も結婚に意欲的ではないというニュースもある。
 時が経てば、このお話は誰にも受け入れられない話になってしまうのだろうか。
 それでも、お直しにおける文菊の語りには、その時代の男女の複雑な関係性がある。私は、それが今後も失われずに語られ続けることを信じている。
 仲日の淀五郎は、もはや千言万語を費やしても表現し得ないほど素晴らしかった。この一席に、私は文菊落語のさらなる進化を感じた。見紛いようのない、赫耀の一席である。これを見た者は全身を迅雷に貫かれるが如き衝撃を受けたである。落語を聞いて灰ならぬHighになる、痺れの止まらない一席であったことだけは読者に伝えたい。
 その衝撃のあまり、翌日の包丁はあえて見ず、七日目に居残り佐平次を見て、八日目に心眼を見た。これも今更、言うに及ばぬ圧巻の演目である。
 
 さて、前置きが長くなった。読者もあきれるかもしれないが、文菊を語る時の私は饒舌である。普段は牢屋に閉じ込められた囚人であり、ドストエフスキーのように獄中においても、類まれなる文才を発揮できれば良いのだが、残念ながら私の牢屋の鍵は今のところ『文菊』、『伸べえ』『九ノ一』という名の鍵でしか開かない。
 さて、そろそろ百年目について語ることとしよう。

 三年前に私が思っていたような、大ネタシリーズを文菊はまだ語っていない。少々、私の願望が強すぎたようである。

真景累ヶ淵や塩原多助一代記とか、牡丹灯籠とか、長編において無類の真価を発揮していくのではないか。

以下の部分は、鈴本演芸場の本興行で大満足である。

もはや15分でも物足りないくらいに文菊師匠にどっぷり浸れる演目に接したいという欲求が生まれてきた。

 本興行はネタ出しである。ビートルズで言えば現時点での『ベストアルバム』のようなものである。もっと言えば、本興行の演目は『ビートルズ後期の青盤』であるとも言える。いわば、ビートルズが様々なことに挑戦した結果、後世に多大なる影響を与えた楽曲を生み出したように、文菊がコロナを経て挑戦し、磨き上げた演目たちであるのだ。
 文菊好きな私にとっては、『ビートルズの赤盤』的な演目も読者に知っていただきたい。『お見立て』、『船徳』、『抜け雀』、『甲府ぃ』、『火焔太鼓』、『三方一両損』、『野ざらし』、『明烏』、『青菜』、『妾馬』などなど、まだまだ優れた一席はある。
 

もしも今、見逃したら絶対後悔する。そんな次元に文菊師匠は達しようとしている気がする。

上記の引用は正にその通りだった。もしも、今回、『淀五郎』と『百年目』を見逃していたと思うと、ゾッとする。
 三年前にも書いたが、なんと言っても、後半の大旦那が番頭に語る場面は、サラリーマンならだれもが涙する場面であろう。
 いわゆる勤め人の苦労に対する労いが、日常生活の様々なものと重なって胸に来る。それを、ことさらに書くことは無いが、ただただ涙が零れ落ちる。それほどに感動的な場面なのだ。
 余談だが、音源では三遊亭圓生のものがあり、そこでは後半の場面で観客の拍手が入る。大旦那の懐の大きさに感動して、あっぱれという気持ちでの拍手だと思うのだが、そこで若干、圓生の語りのリズムを崩しているので、気持ちは分かるけれど、抑えていただきたいと思うところであった。
 文菊の『百年目』では、男女問わずすすり泣く音が聞こえた。あれほどの説得力を持って語ることができるのは、淀五郎が仲蔵に助言をもらったように、何か、心持ちが文菊の中で腑に落ちて、実感を込めて語ることのできるものになったのだろう。
 ネタ卸しの時よりも時間はコンパクトになったが、それでも、凝縮された番頭と大旦那の関係性は美しく、現代においても損なわれることのない関係性である。誰もがそれぞれに商いをして日々を生きている。そんな毎日の中で、自分を認めてくれる人の言葉とは、自分が想像している以上に温かく、じんわりと目頭を熱くさせるものなのだ。
 千秋楽は用事があって行くことはできなかった。ゆえに、これはいわば文菊の本興行を総括するには中途半端な記事である。
 それでも、私にとってはまだ余白の残されたものであると解釈することもできる。今回見逃した包丁と猫忠はどちらも一度見ているだけに、再び見る機会に恵まれることを祈るばかりである。
 私のような素人が言うのもおこがましいが、たとえコロナがやってこようとも、古今亭文菊の素晴らしさは損なわれない。むしろ、より一層太く、強く、燦燦となっていくであろう。
 それを寸分の疑いもなく確信した10日間だった。
 古今亭文菊師匠並びに、本興行に関わった全ての人に感謝申し上げます。
 それでは、あなたが素敵な演芸に出会えることを祈って、
 また、どこかでお会い致しましょう。

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