私の「加害欲」メモ

このnoteの感想。

加害欲を知るにあたっての予備知識

・人は「自分がされてきた加害」によって溜まった加害欲を適切に別の場所で発散しないと暴走する
・自分の加害欲は、「自分がどのような加害を受けてきたか」によって決定される
・加害欲を適切に分解して理解し、「演劇」の場を整えてやることが必要。いきなり道端で人を殴るのはただの暴力であり犯罪だが、リングの上でルールを守って殴ればそれはエンタメであり合法
加害は「嫌い」だけでなく「好き」の形を取ることも多い。好きと嫌いは大きな刺激であるという部分では共通しており、それがポジティブかネガティブのどちらにベクトルがあるかだけの違い

私の加害欲を探る旅

私の好きなこと

私は「話を聞いてもらうこと」が好きだ。
もっと言えば、
1.自分が関心のある分野について
2.興味深く相手に聞いてもらい
3.相手にその分野への関心を植え付ける
ことが好きだ。
相手から受けると嬉しいリアクションもあり「ただ黙って聞くわけではなく、私の話したことに触発されて、なんらかのアウトプットを示してくれる」というのがある。
それは「私の話を聞いてくれている」という確たる証拠だからだ。

また、私は「物語を構築すること」も好きだ。
もっと言えば、
1.外部から受けた「これ、いい!」を元手に
2.複数の「これ、いい!」を組み合わせ
3.自分が最高に没頭できる物語を作り、その物語に没頭する
ことが好きだ。

加害された歴史

話を聞いてもらうこと
私は、これまで両親に満足に話を聞かれてこなかった。
父親は自分の利益になること以外は興味を示さず、コミュニケーションそのものを放棄する。
母親はすぐに話を自分に都合のいいように捻じ曲げ「私悪くないもん」の一点張り。話を聞いてない。
どれだけ言葉を尽くしても、話しかけるタイミングや声色を工夫しても、どれだけ相手の気持ちを先読みして気を遣っても、両親とはろくなコミュニケーションが成立しなかった。現在もそうである。
だから私は「私の話を聞かれること」に非常に飢えていた。
私の話を興味深く聞いてくれる人に、ずっと飢えていたのだ。

物語を構築すること
これは何が原因であるのかは断言が難しいのだけど、大きなきっかけは2つある。
その1つとして思い出せるのは、1999年から放映が開始されたアニメ『デジモンアドベンチャー』シリーズ。

めちゃめちゃカッコいいOPテーマ、重厚な世界観、当時のポケモンよりももっとスタイリッシュで大人びた、しかし子供心を絶妙にくすぐるキャラクターデザインなど、当時の私にとっては非常に革命的なアニメだった。

当時の私は「デジモンのアニメの世界に、自分の理想を詰め込んだオリジナルキャラクターを紛れ込ませて遊ぶ」という、昔で言う「夢小説」的な遊びを開拓していた。

その後、新たなアニメや漫画を知るたびに、私は「夢小説」的な遊びをすることに夢中になっていた。
その世界の中に違和感なく溶け込ませるために、世界観設定を頑張って調べ、矛盾が起こらないように工夫していた(まあ私は調べものが大の苦手だったので、だいたいは伝家の宝刀『トリップ』(うわぁ懐かしい響き)で何とかしてた)

そんな私にもう一つ、大きな衝撃を生んだのが「オリジナル珠魅」である。

オリジナル珠魅に出会うことで、私は「すでに存在する物語を元手に、別の舞台を作り出して物語を作る」という遊びを知った。
(現在のギア・ファンタジアのベースとなっているのも、この遊びだ)
こうして私は、物語作りに没頭するようになった。

恐らく「私の話を聞いてもらえなかった」という加害体験も、物語作りに没頭することに繋がっているのだろう。
私以上に多くの人と日々関わっている友人曰く「幼少期に家庭に問題がある人は、高確率で創作の世界に没頭してる」のだという。
思えば私は、ずっと頭の中で「私の作った物語を聞いてくれる人」を捏造していたなあ、今もそれをやってるなあ、と思う。
ただ物語作りに没頭しているというわけではなく、私は脳内の両親に「ねえねえ聞いて!」をしているのだ。今も、ずっと。

「その物語を見てほしい」のか、「物語を通して私を知ってほしい」のか、あるいはその両方かもしれない。
私にとって、私と物語は分かちがたく結びついているのだから。

コミュニケーションのためのギアファンから、ギアファンのためのコミュニケーションへ

これは余談。
ギアファンの連載は、振り返ってみればもともとはコミュニケーションの手段としてだった。
ギアファンというコンテンツを通して、私の話を聞いてもらうことが目的だった。
Xで何人もの読者やクリエイターとギアファンを通して交流してきたのは、結局は「私の話を聞いてほしい」からだったのだろう。

それが、最近はコミュニケーションとギアファンが逆転してきた。
人と対面で会いまくるようになり、人がたくさんいる会社で働き始めて半年経ち、週イチでボランティアまでやっている。
彼らと話す内容も、ギアファンなど1ミリもかすらないことがほとんどだ。

しかし私は、その中からギアファンへの繋がりを確かに感じている。
生身の人間の生の言葉、行動、それら全てがギアファンの栄養素となっているのを感じる。
昔の私はコミュニケーションのためにギアファンを利用してきた。
それが今では「ギアファンのためにコミュニケーションをする」ようになったのだ。

創作とは不思議なもので、最初はコミュニケーションの手段として行ってきたことが、いつしか「自分の中に生まれた存在」とのコミュニケーションに取って代わる。
そして、自分の中に生まれた存在と対話するためには、生身の人間の外圧を積極的に受け、彼らを鏡として見る自分の姿を知ることが不可欠となる。

ずっと創作をやっていると、いつしか「創作をやるためには、コンテンツを摂取しているだけではダメなのだ」と気づく。
それは「自分に向けて発せられた、オーダーメイドの言葉」ではないからだ。それをいくらコピーしたとて、できるものは歪なハリボテだ。
それでは、いつまで経ってもどこへも行けないのだ。
それが分かったから、私はXを畳んで、生身の人間関係をやることにしたのだ。

私の加害欲はどのように満たすと安全なのか?

これは、いくつか方法が思いつく。

ギアファンを最終話まで執筆し続ける
ギアファンの執筆、および読み返すことは「自分で自分の話を聞いてあげること」に他ならない。
エミルたちの言動を通して、そして彼女らの住む世界のあり方を通して、私は「私が世界をどう見ているか」を知る。
私は「私が世界をどう見ているか」への関心を高めることになる。
高まった関心は、ギアファン本編に向く。
それはつまり、永久機関である。私が私に対して話し、私が私の話を聞く。ずっとその繰り返し。

友達と対面で「演劇」をする

ぷろおご:そうね、なんていうのかな。加害する、加害欲にも、それを満たすための要項、なにがどうなったら発散できたかっていうのがあって、それは自分はどういう加害をされてきたかみたいなところに依存する気がしてる

伊予柑:そうするとやっぱり完全な加害は演劇になるんですよ。ちゃんと要項を満たすために演出することができ、安全である。時間と場所とルールを決めてここは加害空間ですよ。と設定することで安全を担保できる。やっぱり実社会で扱うには加害は危険なので

「ぷろおご伊予柑の大預言」より一部抜粋

人はされたことをせずにいられない。大切なものを壊してしまう前に知っておきたいこと◆毒親【ぷろおご伊予柑の大預言】|三ツ星スラムの情報屋 (note.com)

【演劇】相互に加害が成立するフィールドのこと

1)場所や時間が限られている
2)日常と違うルールが明確にあり、合意されている
3)演劇をしていない観客がいる
4)審判など中止できる人がいる
5)演劇の成立が全員の目的である

これを鑑みると「第三者がその場にいるカフェなどで、時間を決めて、お互いのしたい話をする」というのが一番「演劇」に近いのだろうな、と思う。
演劇のいいところは、相手が生身の人間なので「自分の想定外のフィードバックが返ってくる」ところにある。
それは時に不快な現象でもあるが、長期的に見て自分に栄養をもたらしてくれるのは、間違いなくこの「他者からのフィードバック」なのだ。

私に興味がある人だけが見ているSlackやnoteで、満足するまで話す
これは「演劇」をうまく運営するための下準備である。
決してSlackの比重が生身のコミュニケーションを上回ってはならない。
私は「話したいこと」の発生頻度があまりにも高いため、他人とのまともな意思疎通をするためにはまず「第三者がいる想定で、自分が満足するまで話す」というフェーズが必要だ。
そこで役に立つのがSNS。
私の場合、所属している読書サークルのSlackで、自分に興味のある人しか覗かないチャンネルを作り、そこで延々と喋っている。
それが溜まってきて「これ一つのテーマで喋れるな」と思った時は、noteにして分かりやすくまとめておく。
この「あ~話した!スッキリした~」というフェーズを踏むことで、生身の相手と対面した時「話したがりにならず、逆に相手の話を興味をもって聞く」ことができるようになり、よりよい演劇が実現するのである。
これは、このnoteを真似てやっている。

あなたのお気持ちが、ギア・ファンタジア執筆の原動力になります!