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反・自殺論考2.20 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

フレーゲの無理解

 ヴィトゲンシュタインを「堕落」に追い込んだ「外的な理由」をもう一つ挙げるなら、彼が『論理哲学論考』の序文で、

私の思想がフレーゲの偉大な業績と、友人バートランド・ラッセル氏の諸著作から多くの刺激を得ていることは一言、述べておきたい。

 と名前を挙げた二人の無理解だろう。

 フレーゲには戦後まもなく長姉を通じて『論考』の完成原稿を送ってあり、その返事の手紙を、これまた姉を通じてヴィトゲンシュタインはカッシーノの捕虜収容所で受け取った。
 それを読んだ彼の落胆ぶりは、直後に姉とラッセルに宛てた手紙の、

彼が僕の仕事を理解してくれるとは思ってなかったけど、それでも彼の手紙には些か落ち込んだ。

彼は僕の仕事を一語も理解していません。 

1919年8月1日、19日

 という文面からも明らかである。
 とはいえ後者に対しては、半年ほど前の手紙で、ついに「結晶のように全てが明晰であることを確信している」本を完成させたが「ごく短い言葉で書かれており、あらかじめ説明しなければ貴方は理解できないでしょう(むろん誰も理解できないという意味です)」と書いている。
 だからフレーゲが理解できなくても無理はないのだが、それでもヴィトゲンシュタインは、その後に何通か交わした手紙で、フレーゲの疑問点に説明を逐一したらしく、ラッセルに宛てて「説明することだけで疲れ切ってしまいました」と愚痴っている。
 その上で「私の唯一の希望は、今すぐ貴方にお会いし、貴方に全てを説明することです。たった一人の人間にも理解されないことは大変苦痛です!」と訴えているが、結局のところラッセルにも理解してもらえず、出版に至っては二年も待たされる憂き目にあった。
 その望みが一度は絶たれたタイミングで、彼がラッセルに送った手紙の一節は、ヴィトゲンシュタイン史に刻まれる名言である。 

僕の作品は最高級の仕事か、そうでないかのどちらかです。後者の場合(その可能性が高いですが)印刷されないことに僕自身も賛成です。そして前者の場合その印刷が二十年、あるいは百年早かろうが遅かろうが、全くどうでもいいのです。例えば『純粋理性批判』が書かれたのは千七百何年である、などと今や誰が問題にするでしょうか!

1920年5月6日


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(21)「ラッセルの誤解」に続く

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「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました。 良いサポートにも言えることかもしれません。 ごゆるりとお読みいただき、面白かったらご支援のほど、よろしくお願いします!