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反・自殺論考2.16 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

唯一の友人の死

 ピンセントは1918年5月8日、英国空軍の工場で飛行機事故の調査中、テスト飛行のパイロットを務め、墜落死を遂げた。
 打ちひしがれたヴィトゲンシュタインは、自殺を企図して山中へ向かう途中、ザルツブルク近郊の駅で伯父と遭遇し、これまた近郊の彼の屋敷に連れ帰られた。
 果たして、伯父の家で『論理哲学論考』が今ある形にまとめられ、八月にはウィーンの実家か、避暑地の別荘にて完成したその原稿が、すぐさま出版社に送付される。
 タイトルの次頁には「わが友デイヴィッド・H・ピンセントの思い出に捧ぐ」と書き添えられて。

 ピンセントの母親には、

デイヴィッドは私の第一の、そして唯一の友人でした。私は同世代の青年をたくさん知っていますし、そのうち何人かと親しく付き合ってきましたが、彼だけに真の友を見出したのでした。彼と過ごした数々の時間は私の人生で最良の時間でした。彼は私の兄弟であり、友人でした。毎日彼のことを考えていましたし、彼と再び会うことを切望しておりました。神は彼を祝福するでしょう。

 という手紙が送られたことからも、自殺を考えるほど悲しんだヴィトゲンシュタインの気持ちは伝わるだろう。
 だから八年ほど前、マンチェスター時代の学友ウィリアム・エックルズに「君は生涯ただ一人の友だ」と言ったことがある事実については、沈黙せねばならない。

元「生涯ただ一人の友」W・エックルズ(左)

 とはいえ正直、自殺するほど深刻な状況でもない気がしないでもない。
 案外どこにでもありそうな、友人の死という悲劇の一幕に過ぎないように感じられなくもない。
 が、まさにそういう「感じ」こそが、自殺の理由を論考しても語りえない問題に行きつかざるをえない、そんな現実の一端を物語ってはいないだろうか。

 唐突だが、ポール・ファイヤアーベントという科学哲学者がいる。
 ヴィトゲンシュタインより三十四歳も齢下だが、ともにウィーンに生まれ、彼の所属する学生組織の会合で対面したこともあり、ヴィトゲンシュタインの弟子になるべく、英国留学の奨学金を取得するも、渡英直前にヴィトゲンシュタイが没したため、彼の宿敵カール・ポパーの弟子になった。
 にもかかわらず、ポパーの下でヴィトゲンシュタインに関する論文を書いてしまった男である。
 そんな経歴だけでも面白いのに、元々はオペラ歌手になるつもりだったとか、第二次大戦で腰を撃たれて不能になったとか、四度結婚したとか興味深いエピソードにも事欠かない色男だが、彼の人生には自殺のジの字が見られる。
 母親がガス自殺したのである。ちなみにヴィトゲンシュタインの師匠ラッセル先生も四度結婚し、孫娘が焼身自殺しているが、そんなファイヤアーベントが自伝の中で、

ヴィトゲンシュタインは理論的な考えの自立性を厳しく減らそうとした。

P・ファイヤアーベント『哲学、女、唄、そして…』p135

 と述べている。曰く、

理論を発見した時、それを人は自慢し、自然や社会や人間存在に対する秘密を、わずかな言葉で、わずかな式で、明らかにできたと考えがちである。しかし、そうした術語や数式を、現実の出来事、例えば人が友人を失って嘆き悲しんでいる事態に適用してみよう。

同書、同p

 結局、ヴィトゲンシュタインは自殺しなかった。
 その理由を探究しても真相は語りえまいが、一因とは言えそうなのが、やはり『論理哲学論考』の完成だろう。
 この仕事が成し遂げられなければ死ぬ、と確信していた義務がもし果たされていなければ、親友の死という悲しみには耐えられなかったかもしれない。
 それとも、完成間近の本を彼に捧げるために、むしろ奮起しえたのか。
 ピンセントの母に宛てた手紙には続きがある。

私はケンブリッジで取りかかった哲学の仕事を、ちょうど終わらせたところです。それをいつか彼に見せることができるのを、いつも私は希望していましたし、それはいつまでも私の心の中で彼と結びついていくでしょう。それを私はデイヴィッドの思い出に捧げるつもりです。何故なら彼は、いつもこの仕事に大きな関心を持ってくれていましたし、この仕事を私に可能にさせたあの幸せな気持ちのほとんど全ては、彼のおかげであるからです。私は生きている限り、愛する彼のことを忘れませんし、彼と最も近しいあなたのことも忘れないでしょう。


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(17)「兄の自殺」に続く

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「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました 良いサポートにも言えることかもしれません 少しでも長く物書きの仕事が続けられるよう、ご支援ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします