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反・自殺論考2.17 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

兄の自殺

 義務である仕事を成し遂げ、親友の死も乗り越え、自殺の危機もついに終了!
 となれば、本章も終了できたと思うが、そうはならないのがルートヴィヒのヴィトゲンシュタインたる所以である。
 まだまだ危機を煽るエンゲルマン宛の手紙を見てほしい。

出版社から回答がない! そして手紙を書いたり、問い合わせたりすることに、どうしようもない嫌悪感を抱いています。悪魔は僕の原稿をどうするか知っている。おそらく、化学的に適性をテストしているのでしょう。大変恐れ入りますが、あなたがいつかウィーンに行ったら、あの忌まわしい悪党たちのところに立ち寄り、結果を知らせてください! 僕は仕事をする暇もなく、もしかしたら死ぬかもしれません。

1918年10月22日

 ピンセントの日記に「自分が四年以内に死ぬのは確実だといつも言っている」と書かれ、自分の日記にも「僕は一時間したら死ぬかもしれないし、二時間したら死ぬかもしれない」などと書いていたのが思い出されるが、この時ヴィトゲンシュタインは戦場を東部から南部のイタリアに移し、終戦直前の玉砕も辞さぬ決死戦に臨んでいた。
 したがって、この「死ぬ」は哲学の仕事とは関係なく、また『論考』が理解されないショックで「自殺するかも」という意味でもなく、単に「戦死するかも」という意味にとるべきかもしれない。

 結局その最中に死んだのは、次兄のクルトことコンラート・ヴィトゲンシュタインだった。

 すでに敗戦が確定的だったオーストリアだが、少しでも有利な講和条件を得るべく部隊に撤退を許さず、しかし命令に従わない兵士もいるなど事態が混乱する中で、上官と部下の板挟みに合った将校の彼は、弟ルートヴィヒも近くにいたはずの川辺で自殺を遂げ、遺体すら帰らぬ人となった。
 その死を、ヴィトゲンシュタインが母と姉からの手紙で知らされたのは翌年、彼が捕虜となってイタリアはカッシーノの収容所に送られた後になる。
彼の反応は史料が残っていないので不明である。長姉には「真面目な義務を何一つ持たない、典型的な金持ち独身男性」などと言われてしまった十一歳上のこの兄について、元々ヴィトゲンシュタインが言及する機会は乏しかった。
 印象に残る記述といえば、十二年後の日記にあるこれくらいだろうか。

私には兄クルトの精神状態が完璧に理解できる。それは私の精神状態より少しだけ不活発だったに過ぎない。

1931年7月7日


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(18)「財産的自殺」に続く

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「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました。 良いサポートにも言えることかもしれません。 ごゆるりとお読みいただき、面白かったらご支援のほど、よろしくお願いします!