見出し画像

反・自殺論考2.12 自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生

論理と倫理の繋がり

 ヴィトゲンシュタインが戦場で死に瀕し、それを境に、論理学の研究にも変化が生じた、という解釈は定番である。
 具体的には、1916年6月に東部戦線で始まった、第一次大戦中最大の激戦と云われる「ブルシーロフ攻勢」が、その境となる。
 6月12日の段階で、彼の隊列には元いた1万6千人のうち3千人しか残っていなかった、と聞くだけで被害の甚大さは知れようが、攻勢直前から四十日ほど途絶えていた日記は、こんな記述で再開される。 

先月、大変な辛苦があった。考えうるあらゆることについて考えたが、奇妙なことに、自分の数学的な思考過程と繋がりをつけられない。

1916年7月6日

だが、繋がりはつけられるだろう。言われえぬことは、言われえないのだ!

7月7日

 この、
言われえぬことは、言われえない!(Was sich nicht sagen läßt, läßt sich nicht sagen!)
 という素朴な叫びが、やがて『論理哲学論考』の有名すぎる最終節に昇華することについては、沈黙するまでもない。
 加えて、この言葉が「最大の激戦」を経験した直後に生まれた事実には、注目せねばならない。
 以後は日記のみならず、ノートの右ページにも、論理よりも倫理学的な性格の記述が明らかに増える。

 もちろん「論理と倫理は結局同じ」と述べたヴァイニンガーに影響されたヴィトゲンシュタインであるから、論理学の勉強を始めた頃すでに、倫理学についても念頭にあっただろう。
 むしろ当初から倫理学のほうに主眼があって、それが言語では語りえないことを示すために、フレーゲ及びラッセルの記号論理学を利用した、という解釈すら可能である。
 が、もしブルシーロフ攻勢の「辛苦」がなくても『論理哲学論考』が、今ある本と結局は同じものになったか、といえば否だろう。
 1916年7月24日には、ヴァイニンガーを彷彿とさせる「倫理は世界に関わらない。倫理は論理学と同じく、世界の条件である」が出現し、同月には他にも、

「生の問題の解決を、人は問題の消滅によって気づく」6日
「死は人生の出来事ではない」8日
「幸福な世界と不幸な世界は別ものである」29日
「倫理は超越的である」30日

 などなど『論理哲学論考』の終盤に登場し、本の性格を決定づける記述が続々と現れる。
 自分のようなオタクが大好きな、
「幸福に生きよ!」
 という名言が書かれるのも7月である。

 ただし誤解されがちだが、あたかもヴィトゲンシュタイン哲学の象徴のように扱われている、この「幸福に生きよ!」は『論理哲学論考』の本文には出てこない。
 その理由については、本人が戦後、詩人トラークルへの寄付を仲介した編集者のテオドール・フィッカーに宛てて、

この本の意義は倫理的なものです。かつて私は序文にある言葉を入れるつもりでした。実際には入れていませんが、あなたに今それを書いておきます。というのも、その言葉があなたにとって鍵となるでしょうから。つまり私の仕事は二つの部分から成ります。一つは提示されていること、もう一つは私が書かなかったことの全てです。

 と送った手紙の文面が示してくれている。
 こう続く。

そして正に第二の部分こそが重要なのです。倫理的なものが私の本によって、いわば内側から限界づけられています。厳密に言えば、このようにして のみ 倫理的なことは限界づけられると確信しています。要するに今日、多くの人たちが駄弁を弄している全てのものを、私は沈黙を守ることで本書の中に保持したのです。

1919年10月頃

 なお、彼が最前線でも携帯していた『カラマーゾフの兄弟』の序文にも「この小説は二つあり、重要なのは第二の小説」とあり、続編だったはずのそちらは書かれなかったことも思い出されるが、これ以上は駄弁を弄することになるから、思い出すだけにしておく。
 したがって、通常はトルストイとドストエフスキーの影響の下で理解されがちな「幸福に生きよ!」には、もう一人の男の影がちらつくことも、思うだけにしておく。
 ヴァイニンガーの死後に出た彼のアフォリズム集にこうある。──あらゆる道徳の最高の表現は「生きよ!


自殺しかけたヴィトゲンシュタインの前半生(13)「自殺は罪である」に続く

『反・自殺論考Ⅰ』に戻る

「良いプレゼントを贈るのにお金を沢山かける必要はない。しかし時間は沢山かける必要がある」 そうヴィトゲンシュタインは言いました 良いサポートにも言えることかもしれません 少しでも長く物書きの仕事が続けられるよう、ご支援ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします