SANADAvs内藤哲也について思うこと

お久しぶりです。もるがなです。noteの更新は前回で年内最後にしようかなと思っていたのですが、どうにもSANADAvs内藤哲也が自分の中で消化しきれず、思考整理も兼ねてこうして筆を取る運びとなりました。実のところドーム前プレビューのような形でこの二人の戦いについて何度か書こうとはしたのですが、この戦いのテーマがいまいち見えてこず、書くのをやめてはTwitterの下書きにしたためつつ、公開することのないまま悶々とした日々を過ごしていたわけなのですよ。

メインのカードとしてはインパクト不足……SANADAvs内藤は失敗だ……。そう結論付けてもいいかもしれないですが、単に王者で覇者だから安易に組んだわけではない。ここには確実に「何か」があるはずだ。その確信があったわけです。だって新日ですよ?その気になれば軌道修正するチャンスはいくらでもあったはずです。でもこのカードでドームメインをやると決めた。僕は新日のドームメインに対しては一定の信頼がありますし、だからこそとにかく掘り下げたい。なので今回はこのnoteで何度かやった両論併記の形で両者のドームに賭ける思いを取り上げていきたいと思います。

side:内藤哲也

3度目のG1優勝に4度目のプロレス大賞受賞と波に乗っている内藤ですが、周りが思うほど順風満帆というわけではなく、年齢やコンディション、今年のG1における新世代の台頭などを見ると、主人公としての自身の物語は今回のドームがラストランになる可能性が非常に高いですね。その予感は醸し出す刹那性との抱き合わせであり、あっけらかんとしながらそれと躍りつつも、内藤哲也の走る「今」はいつだって身を焦がすほどの切実さと隣り合わせなのです。

そうした悲壮感で見て欲しくないかもしれませんが、やはり無視できないのは誰もが知っている膝の悪さ。41歳という年齢。そしてそれだけでなく、2019年から悩まされた右目上斜筋麻痺の手術もわりと尾を引いており、筋肉の麻痺だから完治はなく、また試合を続ける限りは常に再発と隣り合わせで、手術ができるのは三度まで。この三度目の手術をドームメインに合わせて行ったあたりから見ても、内藤哲也の今回のドームに懸ける思いの深さは並々ならぬものがあると思います。

そんな内藤哲也からするとこれまでのSANADAの発信力の薄さは非常に許し難いものがあり、ドームメインに対しての想いという賭け金が全く釣り合っていないんですよね。自分はこれだけのものを差し出し、そしてドームメインで勝つための理由も動機もちゃんとある。なのにSANADAにはそれがないのか?単に方法論としてのノーコメントが嫌なわけではなく、ようは何も伝わってこないんですよ。これはファン含めて怒るのは無理がないと思います。新日に所属している限りはドームメインでの王座戦は一つの夢であり、また誰もが立てる舞台ではない。絶大な人気を誇る内藤哲也ですら、年齢やコンディションを考えると今回が最後の可能性だってある。そんな中での全身全霊を「口では勝てない」という理由だけで拒否されるのは、まるで一人相撲を永遠に取らされているような、そんな虚しささえあります。

内藤ファンではない、口さがない人たちからは優勝からドームメイン勝利、デハポン合唱を既定路線かのように語りますが、実のところそこまで安牌というわけでもありません。今回の王座戦は内藤視点だとそればかりクローズアップされていますが、裏テーマとして「IWGP世界ヘビー級王座の最年長戴冠記録の更新」がかかっているのです。内藤哲也はレコードホルダーにそこまで拘りがあるわけではなく、またそうした記録を目的ともしているわけでもない。ではこの単なる記録に何の意味があるのか?それはひとえに今のIWGP世界ヘビー級王座戦線の「年齢」にあります。

IWGPヘビー級王座だったころは最年長戴冠記録って天龍源一郎の49歳なんですよ。それがIWGP世界ヘビー級王座の創設で歴史が一旦リセットされ、一新されてからは飯伏幸太と鷹木信悟の38歳が現時点での「リミット」なわけです。これは転じて40代で「今」のIWGP世界ヘビー級王座を巻けるか否か。つまりは40歳で新陳代謝の激しい今の新日本プロレスの団体のトップに立てるかどうか、という命題に非常に深く関わっており、内藤哲也の今回の王座挑戦は当人は知ってか知らずか、そうしたシステムに対する叛逆になっているのですよ。かつてのIWGPヘビー級王座なら40オーバーでの戴冠に「前例」があるわけですから40代でも夢がありますが、それがIWGP世界ヘビー級王座へと変わったことで真の頂点への道は極めて狭き門となったわけです。

またIWGPグローバルやNEVER王座、TV王座にKOPWと別路線のシングル王座が潤沢にある今だと、昔と違って目指す頂点は変わらずともIWGPでなければいけない必然性は薄く、団体の「顔役」はやはり新時代である若い世代が望ましい……。これは今年のG1における新世代の台頭を見ても分かる話ではあると思います。つまりは今までのIWGP世界ヘビー級王座は20代後半から30代後半までが凌ぎを削る主戦場であり、故に過酷で価値があるのでしょう。これは新世代にベットし続ける団体の方向性にそぐわないというだけの話ではなく、前述のコンディションの問題や残された時間も含めて「あらがう」物語でもあり、内藤哲也の夢の実現は当人やファンのためだけではなく、より重く大きいものへと変貌しているわけなのです。

そんな新時代の変革期の中、今年のG1でオカダ対内藤という「俺たちの時代」を改めて示したことは世代として大きな意味があり、2010年代の総決算でもあったわけです。ただ、内藤哲也視点で見て一つ怖いことがあるとしたら、今回のG1でのオカダ戦が未遂に終わった2020年のドームメインでのデハポン合唱の「再演」に過ぎないのでは?という懸念があり、ようはあのときオカダに勝って綺麗にドームで終われなかったからこそ、今年の優勝戦でのオカダ戦が合唱含めてその「代替」になってしまうのでは?という不安があるのです。加えて、このnoteで何度か繰り返し語っている通り、内藤哲也はエンドマークの付かない男です。武藤敬司の引退試合ですらその先に武藤vs蝶野というボーナストラックがあったわけで、内藤哲也の物語って常に道半ばなのですよね。1.4ドームメインでのデハポン合唱が「できなかった」ことはかなり重たく横たわっており、ひょっとしたらそれは引退のその日まで行われないのでは……と。そして引退が1.4のドームメインに合わせられるという保証もなく、よしんばそれが叶ったとしても、夢が叶うことは一つの夢の終わりでもある。何かが確実に変わってしまうわけで、それを思うと内藤哲也がどんな思いで今回のドームに挑んでいるのかが痛いほど伝わってくるわけで、それを思うと安易にデハポン合唱を既定路線のようには扱えないんですよね。そんなに軽いものじゃないのです。

内藤哲也にとっては自身のキャリアの中での「忘れもの」を取り戻すための戦いであり、果たしてSANADAはその相手に相応しいのか。ノーコメントではなく自分の存在意義を賭けて欲しかった。強大な相手でいて欲しかった。ちゃんと内藤哲也を「見て」欲しかった。いやはや、ヒリついていますよね。

side:SANADA

内藤の硬軟織り交ぜた「焚き付け」に対してSANADAは驚くほど無頓着かつ朴訥で、SANADAは王座戦を盛り上げられないチャンピオンという謗りは各方面で聞かれます。それほどまでにマイクやバクステでの発言込みでプロレスだという意見は根強く、厳しいことを言うのであれば、無言を見る側が勝手に補完してくれるほどのカリスマ性はまだSANADAには備わっておらず、無言を納得させられるほどの貫目も足りてはいません。ようは言霊力。単なるマイクやバクステでの発言というのはつまるところそこに集約されますし、ノーコメントよりも批判の要因としてはそちらのほうが大きいのではないかと思ってます。

ただ、SANADA自身、実際に口下手ではあるし器用でないのも確かなのですが、ここまでノーコメントを貫くことには彼なりの信念や意味がちゃんと存在し、その意図を口にすること自体がある種の矛盾を呼んでしまうわけです。一応今までの少ない発言をつぶさに拾っていけば、その行動にもスタンスにもちゃんと一貫性はあるんですよ。週プロの内藤哲也論と題したSANADAのインタビューは、SANADAの反論を読みたかった人からすると響かないように思えるかもですが、丁寧に読み解いていくとちゃんと必要なことはあれで全部開示しているんですよ。

SANADAのスタイルは「クラシカル」そのものであり、当人のファイトスタイルはそのまま思想へと直結します。そもそものルーツが全日にあることを踏まえると、謂わば新日流のリング内外での丁々発止や舌戦は根本的に彼の思想にそぐわないものであり、基本的にどれだけ言葉を重ねようともリングの上での試合内容がその全てで、それに関しては僕も同意はするのですよ。まず試合ありき。これはわりと大事なことだと思いますし、個人的には今回のG1での王者として外敵を迎え撃った清宮戦でのベストバウトと、新世代である辻陽太との王座戦と公式戦含めた二連戦が素晴らしく出来が良かったのもあってか、それが内藤だけではなくSANADAも応援しようかと思う気持ちの「貯金」となっているわけです。内藤哲也の挑発に対して「乗らない」理由の一つはまずそこにあると思うんですよね。

もう一つ。これが理由として大きいと思うのですが、ロスインゴの三番手(タイチ曰くミドレンジャー)からの脱却というのがあり、これはインタビューでも「当時のほうが人気があった」「内藤哲也と愉快な仲間たちでは終わりたくなかった」と述懐していますよね。公開された内藤哲也とSANADAのヒストリーを見ても分かる通り、十数年以上前、二人はプロレス界の未来であり期待の星でもあったわけです。互いに挫折はあれど、内藤のIWGP戴冠という栄光のきっかけを作ったのはSANADAなわけで、そこから差がついたことを思うとロスインゴの三番手、未完の大器扱いのままで日々を過ごすのは激しい葛藤があったと思います。インタビューにもあった「(内藤は)落ちているわけではないけどあの頃がピークだった」というSANADAの弁は嘘偽らざる本音であり、これは内藤に向けての挑発だけでなく、SANADA自身への期待感というか、真田聖也の新日参戦というワクワク感も含めた自分に向けた言葉でもあるのでしょう。

彼にとって決定的だったのは、後から加入した鷹木がIWGP世界ヘビー級王座を巻いてしまったことで、ユニットリーダー以外でも巻けることが浮き彫りになってしまったことで、かえって自身の不甲斐なさが際立つこととなってしまったんですよね。加えて、武藤敬司の引退試合の餞を内藤に奪われたのはまさに決定打であり、これは取り返しのつかない後悔の一つであるとも思います。武藤直系の直弟子としての「看取り」ができなかった。これは単なる機会の損失ではなく、それを行うだけの「格」が足りなかったことの証左でもあり、その奪われた相手がよりにもよって内藤哲也だった。これは彼のプライドを大きく傷つけたと思います。

だからこそ、それ以降のロスインゴのメンバーとして未完の大器扱いされていた時期の人気含めて捨て去りたかったのは理解できます。それは結局いくら期待されていても「三番手」としての人気でしかなく、言うなればそれは「ロス・インゴべレナブレス」という「屋号」ありきの人気であり、どれだけ注目が集まろうとも「ロスインゴのSANADA」でしかなく、それは内藤哲也が作り上げた世界での人気でしかない。そうしたブランド力のない、SANADA個人としてのブランドがどこまで通用するか。完全にゼロの状態から自分の立ち位置含めて力を試したかった。これはかなり意図的なものでしょう。

SANADA個人の思いを言葉に乗せてファンに届けたところで、ドームへの思いに呼応すればそれは容易く「かつて同じユニットにいた戦友や同志」といった視線に囚われてしまう。そこから脱却するには完全に袂を分かつ覚悟がなければいけないですし、嫌われなければ内藤哲也とは「対等」になれない。SANADAは不器用だからこそこんなやり方しかできず、また口下手だからこそそれらの感情を下手な言葉で誤魔化したくないんですよ。

また逆に、個人の物語や思いを打ち出したところで、それが今回の内藤哲也のドームに賭ける物語の「重さ」には勝てないだろうなという強かさ、もとい計算高さも彼には当然備わっているとは思います。そしてそれは恐らく正しいんですよ。G1優勝にドームデハポンリベンジ、かつ手術を終えてファイナルカウントダウンが始まりつつある今の内藤哲也相手に「主役」を簒奪するのは相当キツく、はっきり言って今の新日だと誰が相手でも無理だと思います。「顔役」のオカダですら内藤と相対したときは団体の寵愛を受けた権威主義者のヒールとしての振る舞いをやらざるを得ないわけで、それほどまでに内藤哲也の「主人公」としての壁は厚く、今回に限っては物語の「強度」が違うわけです。

内藤哲也サイドから見るとSANADAは内藤哲也を見ていないように感じますが、それはSANADAからしても同じで、オカダほどには内藤の相手としての意味合いが強くなく、それは前述の「同格」ではないということに直結します。だからこそドームデハポンをやる相手として相応しいか否かという「査定」めいた視線やマイクや発言を要求することそのものがSANADAからすると舐められていると言っても過言ではなく、それだとやはりマイクやロスインゴそのものを含めて「拒否」や「拒絶」をするしかない。だから内藤の要求する言葉の応酬には加担しないわけなのですよね。

これはマイクやSNSでの発信を基調とした令和のエモーショナル・プロレスに対してのクラシカルかつ静かな反逆でもあり、日々を彩るインスタに常駐し、ファンの声がダイレクトに渦を巻くその他SNSから距離を置くのも理解はできるのです。年内最後の大会によるマイクで徹底して触れず、至って普通かつ朴訥に貫いたこと事態が、そうした21世紀版の活字プロレスに対しての距離の置き方なのかなとも思っちゃいました。またこれは考え過ぎかもしれませんが、あれはあれで変則的な「トランキーロ」でもあり、自身の言葉を聞かせずに帰りを促すというのは挑発としては最大級で、あれを見てファンが怒ったことで、対立はより明確化したなと思います。ようはSANADAvs内藤につきまとう「ロスインゴ感」を徹底的に脱色したかったんでしょう。

いやはや……頑固だとは当人も語っていましたが、ようはSANADAにはSANADAの物語があり、必要最低限の言葉以外はリングで示す思想もある。つまりはそういうことだと思いますかね。内藤とSANADAの夢は言ってしまえば性質が全然違うもので、内藤の視野に言葉の足りないSANADAは全然入っていないし、SANADAにとっては自己実現とアイデンティティの問題である以上、当然視野に映るのは自分であり、内藤は意識はすれどそこにいない。その二人がリングの上では互いを視野に入れざるを得ず、向かい合うのは雌雄を決するときのみ。これはそういう戦いです。





いかがだったでしょうか?自分なりに言葉を集めて思考整理もかねて書きはしたものの、双方のファンからすると至らない点が多々あるかもしれません。僕はわりとどちらも応援しているだけに、今回は胃がキリキリするような感じもあり、また、そのファン特有の、所謂「推し」に対する思い入れなどは完全にはトレースできないのです。それの歯痒さがありつつも、僕は恐らく当日までは迷いつつゲロ吐きそうなプレッシャーで試合を眺めることとなるでしょう。新日……ドームメインはやはり凄いですよ。一筋縄ではいきません。まさに文芸作品ですよ。

ぶっちゃけた話、内藤哲也を主人公とした物語を主軸に据えるなら相手はオスプレイが適任だったと思います。オスプレイ自身の新日の総決算でもあり、今の内藤哲也が必死に追い縋る「最前線」の象徴でもあり、今まで勝てない相手であり、勝った今でも薄氷の勝利だったわけですから、相手として申し分ないです。

SANADAをメインに据えた主人公路線なら、逆に相手として相応しいのは辻陽太でしょう。両者の試合のクオリティは高く、辻の早すぎるG1優勝からの、壁となったSANADAへの三度目の正直。SANADAもどちらかといえば新世代の壁役というか、役割としては世代闘争が適任であり、そちらであったなら今ほど支持率が賛否両論になることはなかったように思います。

でも、そうはならなかった。そこには意味があるとは思いますが、それらを抜きにしてもこのタイミングで歯車の噛み合わないSANADAと内藤が向かい合ったことにはやはり何かがあるのです。このnoteで完全にそれらを書けたとは言い難く、試合が終わるまではわからない。今回のnoteは双方に不満を持つ人を納得させるために書いたものではないため、受け入れられない部分は自分の視点として大事にしてください。あ、でも感想は大歓迎です。ではでは、今日はここまで。