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歯周病の啓蒙活動をしたいらしい

私の夫は、歯磨きの時間を、人生で最も無駄な時間の一つだと思っている。
丁寧に磨くと、とてもじゃないが2,3分では終わらない。
その間、利き手がふさがっているため、他の作業もできない。
ボーっとテレビを見るくらいしか、することがない。

「何だこの時間は?なんて無駄なんだ!」
と、小学校高学年の頃に、歯を磨く習慣を捨てたらしい。
本人は
「俺の口の中には、虫歯菌ごときには負けない、強い強い菌が棲んでいるため、歯磨きをさぼったくらいでは、虫歯にならないのだ。俺の歯はそいつらに守られているのだ」
と豪語しており、実際、虫歯にはなったことがない。
が、虫歯にならなかった代わりに、50歳を過ぎて歯周病が進行し、歯が二本も抜けた。
見事な『歯抜けじじい』っぷりである。

その夫が、昼頃に、ぷんぷん怒りながら、歯科医院から帰ってきた。

この歯科医院は、敦賀で診てもらっていた先生から、ご紹介いただいたところだ。
歯医者が怖い夫は、少しでも怖さが和らぐように「腕のいい信用できる歯医者さんを紹介してください」と頼み込んで、敦賀の先生の大学時代の同級生を探していただいたのだ。
当のご本人同士は、もう30年くらい、お会いしたことがないらしい。
それで「腕がいいのかどうか、わかるのだろうか?」と思ったが、夫に言わせると、知っている人の紹介だと思うと、それだけで、5割は信頼度が増すらしい。
引っ越し先の住居を決めるに際し「紹介してもらった歯医者さんから遠くないこと」を最優先に決めたほど、夫にとっては大事な医院である。
ところが、今日の夫は、その大事な歯科医の先生に激怒しているのだ。

どうしたのかと聞いてみると、
「あいつは、患者の気持ちを分かっていない」
と、よほど悔しかったのか、顔を真っ赤にして言う。
ことの経緯はこんな感じらしい。

治療後に、歯科衛生士のご年配の女性から、歯磨き指導を受けていた夫は、完璧な歯ブラシさばき&歯間ブラシさばきで、「お上手ですね」と褒められた。
そりゃそうである。
歯を二本も失ってから、これ以上は、絶対に無くさないぞ、といわば背水の陣で学んだ、歯磨きテクニックだ。
朝ドラを見ながら適当に磨いている私とは、気合も磨き残しレベルも全然違う。
ところが、歯科医の先生がそれを見ながら
「歯が抜ける前に、それだけ丁寧に磨けていたらよかったのにねえ」
と言ったのだそうだ。

(それがどうしたんだろ?)と私は思った。
(歯磨きしないからこうなったんじゃん、自業自得だ)と、私だって日々思っている。
(もっと前から、ちゃんと磨いていればよかったのに)とは、誰だって思うことだろう。

ところが夫は
「そんなことは、本人が一番よくわかっているのに、治療する医者が、わざわざ患者のやる気をくじくようなことを、なぜ言うのか?」
と怒る。
「そもそも、俺は、歯周病について、啓発された覚えもない。子どものころ、虫歯の怖さについては、学校でも教わったが、誰も歯周病については教えてくれなかった。ある日突然歯が抜ける恐怖とか、痛すぎて硬いものが噛めなくなる辛さとか、俺は知らなかったのだ。言ってみれば、歯科医連中が、啓蒙活動をさぼっていたから、今俺が、歯周病で苦しんでいるというのに、それを棚に上げて、あの言い草は何だ?!」

見事な八つ当たりだと思うのだが、本人的には、たいへん理にかなったことを言っているつもりらしい。
「誰もやらないなら、俺が歯周病の患者を代表して、全国の小中学校を回り、実際に歯の抜けたあとを見せたり、ぐらぐらして今にも抜けそうな歯を、子どもたちに触らせてやってもいい。これは大事な活動だ」
と主張を続けている。

私だったら、絶対、知らないおじさんの口の中に手を突っ込んで、ぐらぐら動く歯を触りたいとは思わない。
しかも、虫歯についての啓蒙はうけたのに、それでも、歯磨きをしなかったのは夫ではないか。
歯周病の啓蒙活動に、どれほどの効果があるというのだろうか。

しかし、私は学んだ。
夫は、歯が痛いことに共感してもらえなかったくらいのことで、離婚したくなるほど、痛みに弱く、簡単にパニックになる人間なのだ。
今見ているのは、パニックに陥った状態の夫なのだろう。
理屈っぽいので、パニックを起こしているようには見えないが、前回、歯が突然抜けた時もそうだった。
今回もきっと、そういうことなのだろう。
よほど、今日の治療が痛かったんだな。
はた迷惑だが、もう、そういう人なんだから仕方ない。

「それはとてもいい考えだと思う。老後は、歯周病の啓発に人生を捧げて生きるのも、とても有意義なことだと思う」
と、思ってもいないことをすらすらいえる程度には、私も、夫のパニックに付き合うすべを学んだということだろう。
痛みがなくなる頃には、激怒したことも、啓発活動のこともすべて忘れていると思うのだが、しばらくは、妄想に付き合ってあげようと思う。

**連続投稿641日目**



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