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みみたぶ

もう50年も前の話。
家から小学校までの通学路には、大きな農家が何軒かあった。
その半分以上のご家庭が、犬を飼っていた。
当時の田舎では、犬たちはたいてい、玄関近くに小屋を置かれて番犬として飼われていた。
家の中で愛玩犬として大事にされるほど「犬の権利」が向上したのは、もっと後のことだ。

番犬なので、知らない人にはちゃんと吠えなくてはならない。
犬にとっては、家族以外は知らない人に等しいので、新聞配達も、御用聞きも、郵便屋も、かまわず吠える。
吠えるだけならともかく、噛みつくこともあって、当時、そんな犬たちは問答無用で保健所に送られていた。
誰も、正しい犬のしつけ方や、犬にあわせた生活の整え方などを知らずに飼っていたので、そういう事故は多かったと思う。

あれは、たぶん、小学校2年の時のこと。
当時、我が家の近所には、同級生の女の子が、さおりちゃん一人しかおらず、私は下校時いつもさおりちゃんといっしょだった。
さおりちゃんは、とても勝ち気な子で、こちらにその気がなくても、何でも競り合ってきて、しかも勝たねば気が済まない。
突如始まる
「あの電柱まで競争ね! よーいどん!」
にはすっかり慣れっこで、たいてい毎日、ガチャガチャとランドセルを鳴らして、さおりちゃんの後ろを走って帰っていた。

その日、さおりちゃんは新しい遊びを思いついた。
下校途中に会う番犬たちの中で、1番大きな黒い犬を撫でられた方が勝ち、という遊びだ。
犬たちは体が大きくても、ひなたで寝そべっている限り、とても友好的で愛らしく見えた。
中でも、その大きな黒い犬は、時々、椿の生垣の隙間から顔をのぞかせていることがあったが、吠えられたことは一度もなく、おとなしい子なんだろうと勝手に思っていた。

じゃんけんで負けた私が、先に一歩前に出る。
その日も、生垣の下から「伏せ」の姿勢で犬は、顔を出していた。
こちらをじっと見ていたが、ワンともいわず垣根の向こうのしっぽはパタパタと揺れている。
私はこわごわと、手のひらを上に向け、犬の鼻先にそっと近づけた。
犬は、しばらくクンクンと匂いを嗅いでいたが、そのうち、ぺろりと私の手を舐めた。
ほっと安心した私は、そっと犬の頭をなでて、後ろに下がった。
目でさおりちゃんに、(選手交代ね)と合図する。
私が犬に触れたことが面白くないさおりちゃんは、さっさと勝負を終わらせようとしたのだろう、いきなり犬の頭に手を伸ばした。

「ゥワウッ!」
いきなり犬の吠え声が聞こえ、ものすごい速さで何かが目の前をよぎった。
さおりちゃんは、うしろに吹っ飛び、勢い余って尻もちをついたが、どんなに怖くても、怖いそぶりを見せたり、泣いたりしないのがさおりちゃんだ。
「チキンな奴だと思われるくらいなら、死んだ方がまし」くらいに、謎に高いプライドを持っていたのである。
立ち上がり、パンパンとスカートに着いた土を落とすと、何事もなかったかのように
「びっくりしたねえ。今の勝負は、無しね」
などと言いながら、歩き出した。
やっぱりな、と私は思った。
負け試合は、カウントしないのが、さおりちゃん流なのだ。

異変に気付いたのは20mくらい歩いてからだった。
さおりちゃんの、白いブラウスの右の襟に、赤い血のシミができている。
(こんなの、さっきからついてたっけ?)と気になったが、当のさおりちゃんは、何でもない風におしゃべりを続けている。
しかし、そのうち、さおりちゃんも、自身の違和感に気付いたのだろう。
しきりに自分の耳たぶを触っている。

「ねーねー、あゆみちゃん、私の耳、どうなってる?」
ついにしびれを切らしたさおりちゃんが、私に右耳を見せてきた。

私は、声が出なかった。
さおりちゃんの耳たぶは、全体の4分の1くらいが、きれいな鋭角を作って切り取られ、消えていた。
そして、そこからは、ぽたぽたと新しい血がしたたり落ちていたのである。
私はごくりと生唾を飲んだ。
そして叫んだ。
「さおりちゃん、耳がなくなってる!」
さおりちゃんは、目を剥いてこちらを見ると、
「いやぁーーー」とも
「うわーーー」とも
「ギャー――」とも聞こえる、つまり人間の声っぽくない声で泣き始めたのだった。
私も泣きたかったが、さおりちゃんが泣いているのを見て驚いたからか、逆に冷静になってしまい、大人を呼びに最寄りのパーマ屋さんに走って急を告げることができた。

ここまでの記憶は、すごく鮮明に残っているのに、そのあと、誰がどうやって、さおりちゃんをケアしてくれたのかは、まるで覚えていない。
たぶん、すごくほっとして、私の役目は終わったと思ったからだろう。

しばらくしてから、さおりちゃんに耳を見せてもらうと、ほぼ直線で切り取られたのがよかったのか、縫い合わせた耳たぶは、多少引きつっていたが、最初からこういう耳だよ、と言われたら、そうかなと思う程度には治っていた。
黒い犬は、いつの間にかいなくなっていた。

**連続投稿703日目**

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