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悪いことをしているわけではない

悪いことをしているわけではないはずなのに、どうしてビクビクするのだろう。

正解がわからないことを周りに合わせて、ただやってきてしまったから、怒られたり、嫌な顔をされないかとビクビクする。
きっとそういう教育を受けてきたのだと思う。

幼稚園でも、学校でも、家庭でも。

きっと自由であることが正解だとは教えてもらえなかったのだと思う。

先生の言うことを聞く、普通にいい子。
もちろん親には嬉しそうな顔をされたいわけだから、親が言うことをなるべく聞く。親は私がやりたいことをなるべく聞いて、なるべくやらせてくれようとした。それはお金の問題とか。

それはもちろん、”その中”でやることを表しているのであって、”その中”っていうのが大して窮屈だとは思わなかった。これだけしてもらっているのは、ありがたいことなのだと思ってきた。

わたしと”同じように生活できない人”もいるから、

だから、こちらは幸運なんですよ。

というようなことを言われてきた。
そう信じていたこと、今では本当に危ないことだと思う。よくそんなことを問題視しないで、今まで生きてきてしまったものだと、呆れています。

わたしと”同じように生活できない人”って誰? 
テレビには苦境から忍耐と努力で幸せになっているというような人たちのサクセスストーリーが流れていた。

この人たちはその後ずっと幸せでいられるのだろうか?と疑問だったり、心配したりした。

その人の人生の切り抜きをドラマティックに見せられているだけだったと思う。でも、あの頃は、自分はこの人たちのように苦境の状態にあるわけでないのだから、この人たちよりもがんばるべきだと、心の底で信じていた。


とはいえ、幸運であることに甘んじて、このあたりの疑問に答えてこようとしたことはありません。


コロナ隔離のおかげでポッドキャストをするようになって、何が私を困らせているのか、ちょっとづつわかってきました。それで、今、こんなことを書いています。

悪いことはしていません。でも、自分が

わたしと”同じように生活できない人”もいて、
だから、こちらは幸運なんですよ。

と言われて、だから幸運でない人よりも頑張らないといけないのだと信じて生きてきたことにそう簡単には消えないうしろめたさがあります。

幸運でない人って誰ですか?


ところで、うしろめたさという言葉をわたしのこの状態に当てはめられたのは、コテンラジオを聞き始めたことから始まります。
深井さんがイチオシしてくださっていた「 #文化人類学の思考法 」に出会い、感動しました。今まで知らなかった視点で書かれた本でした。文化人類学という学問も知りませんでした。

そして、編集執筆に関わっていらした松村圭一郎さんの追っかけをするようになり(大学教授の追っかけってなに?って、この辺りはいつか詳しく)
#うしろめたさの人類学 」に出会いました。

全部読めていないけれど、簡単に言うと、この地球のどこかで苦しんでいるかもしれない人がいると知りながらも私たちはのうのうと生きていることに対するわたしたちに湧き上がる ” うしろめたさ "
をどう解釈するのか、ということが書いてあります。(書いてあるはず)



うしろめたさ

という言葉を使ってわたしの気持ちをあらわせるようになってからとても気持ちが楽になり、私自身にうしろめたさが生まれる背景について、ちょっと掴めてきたような気がします。だから、ここに書けている。

このうしろめたさから逃れることはできないけれど、これからもこの気持ちと向き合っていきたいと思います。

悪いことをしているわけではないけれど、うしろめたいと感じてしまう自分の一部が少しでも安心して毎日お祝いできますように。

また明日