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コーチング観点で振り返る人生ストーリー

改めまして、もてけんです。
プロコーチと組織開発コンサルタント、そして合宿人というチーム合宿を増やす活動をしています。

自分の人生を振り返ることは大事だと思うのですが、僕の場合でこれまで43年間の人生は膨大なデータ量となってしまいます。
単に振り返るだけでは、

・事実のみでは味気ない
・あの頃は良かった/悪かっただけでは過去の記憶が強化されるだけ

なので、ここはコーチングの観点として、

・自分の人生を通底する価値観(want to)や強み(才能)は、どう現れてきたのか?育ってきたのか?
・未来のゴールから見た時に、関わる・役に立つ体験は?

そんな感じで、改めて上記の視点から振り返る人生ストーリーを記していきます。(書く前からワクワク)

人生を通底する価値観(want to)

まずは、僕の人生を語る上での、人生を通底する価値観(want to)はどんなものかというと、
会社名にもしている
「Co-Creation」
です。

もてけんのwant toのイメージ

共創するとか創発するとかの意味があるけど、
僕にとっては、
「最大の体験インパクトを創る」
としていて、

平たく言うと、
「今、誰と何をするのが一番面白いか?可能性が広がるか?」
こればっかりを四六時中考えてます。

これは合宿という場はそれそのもですし、コーチングや組織開発の仕事においても表れています。

ここからは僕の人生をこの観点で振り返っていこうと思います。

とにかくふざけるのが好きだった幼少期

僕の最古の記憶はというと、2-3歳の頃だったかなー。実家の2階から屋根の上にハイハイで出て歩き回ってしまって大騒ぎ

「この窓の先に行ったら面白そうだ」

という感覚だけ今でも鮮明に覚えている。

幼稚園の時はふざけてばかりいて、「おふざけ組」と呼ばれ、園長室で給食を食べていた。園長室には大きなデスクトップのパソコンがあって、「ロードランナー」というゲームを先生にやらせてもらい、なんか特別な体験ができてラッキー位に思っていた。

お遊戯会で、クラス別に劇を発表した。「いなばのしろうさぎ」を演じて、僕のB組でA組と比べて出来が悪かったらしく、先生がみんなに説教していて、シーンとなっていた。
先生がみんなに「なんでダメだったと思う?」と言うのに対して、
なんかその空気が嫌だったのか、

「みんながバカだから〜」

と大声で言ってしまい、廊下に立たされたこともあった。

「場の停滞した空気を変えたい」という感覚は、それ以降表れている。

「優秀であるべき」が確立された小学生時代

みんながやっていたからと、少年野球のチームに入り、Bチーム(二軍)でショートでレギュラーに。応援したり敵チームを野次ったり、みんなでワイワイ力を合わせて勝つというのが楽しかった。

僕の価値観に関わるエピソードとして、ある試合にて、ピッチャーが牽制球をセカンドベースの僕に投げた時、僕はボールをピッチャーに返す振りをして、隠し持ち、ランナーがベースを離れた時にタッチしてアウトを取った。「隠し球」と呼ばれるやつだ。

この時、「してやってぜー!」とグローブを高々と上げてドヤっていたが、
ザワザワと審判達が集まり出し、協議の結果、少年野球にふさわしくないとなり、アウトは取り消しとなった。
この行為が良いか悪いかというのは、判断基準によると思うが、
僕の中では
「姑息なことをしてはいけない」
とずっと呪いをかけていることに、ここ1年で気づく。
ストレングスファインダーで1位である戦略性と表裏である強みのはずだが、「してはならない」と半分封印していた。
→これ実は最近気づいたので呪いを解き、「自分の姑息さだと思っていたものは、実はは戦わずして勝てる領域を見つける、撤退がうまい」といいった戦略性に繋がっていると受容することで楽に活かせるようになっている。

勉強についていうと、
物心つく前の大学という言葉も知らない時から、父親から「お前は頭がいいから東大に行け」と言われ、勉強は特に好きではないけど、なんとなくできていた。
そこで近所の友達が通い出した、今はなき山田義塾、親から行ってみる?と言われてこれまたなんとなく言ってみたのが、中学受験の始まり。入塾してすぐに上のクラスに入り、試験でクラスでトップを取ってから、「自分は優秀である」というアイデンティティが良くも悪くもできていったと思う。

僕は何か新しいことを始めて、それなりに続けることが得意な反面、大事な進路や就職をあまり考えずに決めて何となく続け、損切りできずに後悔することも多かった。
今思うとこれは「自分は何をやりたいのか?」に基いて生きないと、簡単に周りに社会の既定路線に乗っってしまうという危機感につながっている。

暗黒と思っていた中学生時代

中高一貫進学校の巣鴨中学校へ入学。
当時新御三家と言われていた男子校で、勉強ができる男子達が関東一円から集まるので、成績も小学時代のトップから平凡へ転落するというアイデンティティロス。全国トップの人も同じクラスにいた。
中間・期末テストでは全員の成績順位がさらされ、成績が悪いとバカというレッテルが貼られていづらくなるという環境。
野球部に入るもパッとしない。女子もいないので、カッコつける相手がいない。平凡以下な自分、何者でもない自分。

つい3年前くらいまでは、中学校は暗黒時代であると思い込み、あまり掘っても出てこないと思っていたが、ふんどし一丁で千葉の海を泳いだり、夜中に富士山麓の大菩薩峠を越える行事や、年始の剣道の寒稽古があったりと、
非日常な合宿的な行事が多く、「合宿人」を立ち上げる時に振り返ると、この時間は好きだったことを思い出す。そう、過去の意味はゴールによって変わるのだ。

バレーと受験の高校生時代

バレーボール部へ。なんか球技がやりたいものの、Jリーグが開始したサッカー、スラムダンクでバスケは大人気、高校から初めてレギュラーになれそうという理由で(ここでも戦略性の発揮)入部。
バレー部では、誰かがミスをするとキャプテンがキレて雰囲気が悪くなるのが嫌で、なんとかムードを盛り上げようとしてたかなー。
バレー部には高入生といって、中高一貫校で高校から入ってきた人たちが多く、仲良くしていくことになる。なんとなく中学組の出来上がった関係性が窮屈に感じていたので、他の中学から来た友達の新しい感じが楽しかった。

また、小学校時代の友人達との交流も復活し、夜に家を抜け出して公園に溜まってストリートダンスやったりたり、バイクに乗ってる人たちもいて「すげー」と感じて楽しかった。

高3からは受験対策で過去問を解く日々。
父親からは東大へ行けと言われてきたが、東京理科大だけ受かる。
浪人するかを迷ったが、住めば都だと思い、入学を決める。
なんかあまり意味がないように感じた選択だったけど、どの大学に行くかではなく、何を学びたいか?の本当はもっとやりたいことベースに考えた方が良かったと思うが、はたして浪人していたら気づけただろうか?w

ダンスに明け暮れた大学生時代

僕の人生において大きな影響となる、ダンスを本格的に始めたのは大学から。
ダンス&DJサークルがあって、流されてヒップホップを聴くようになり、カッコよかったのでDJとして入部するも、機材を集めるのにお金がかかるので、隣でみていたダンスを始めてみた。モテそうだし。ロックダンスというジャンル。

3ヶ月ほど練習して、先輩に振りを入れてもらい、初めてのショーへ出演。この時もとても緊張したが、踊っている時の感覚は最高だった。
これまでの人生、自己表現というものをあまりしてこなかった、自己というものを一気に解放した感じと、たくさんの声援を浴びて最高に気持ち良かったことを思い出す。

ここからダンスにハマっていく。予想に反し大してモテなかったが、それでも踊る。チームで集まり、新宿のビルで夜な夜な練習し、六本木・渋谷・横浜のクラブでオールナイトのイベントに出演しまくる。
当時一緒に踊っていた仲間には、今でもトップダンサーで活躍している人もいて、リスペクトしている。

その中でも大きかったのが、関東大学ダンス連盟といって、たくさんの大学のサークルから人が集まり、年に1回、200人位で公演をつくる舞台があり1年生の時に参加して、みんなで大きな舞台を創り上げるのが最高だった。

ありがたいことに、4年生の卒業前には憧れであった振り付け師をやらせていただき1曲舞台をつくった。
僕は選抜制のスペシャルな曲を任されたので、オーディションを実施。誰を選ぼうかと思っていたら、仲間の1人が「全員通したい」と提案してきて、少し迷ったが熱意を感じたので採用した。

そしたら大変、選抜曲なのに全員通すとは何事か!と当時の会長(今でも仲良し)にブチ切れられたが、なんかスイッチが入った自分は「ぜってーいい曲にするから!」と言い放ち、そのままやり通した。
結果、選抜するよりもバラエティに富んだいい舞台をみんなで創れたと思う。
仲間達と最高の舞台をCo-Creationした、人生で最高の瞬間のひとつであり、拠り所となっている。

ちなみに勉強は殆どしなかったけど、要領の良さでなんとか卒業。

就活では、電気工学科の多くは電機メーカーに上から順番に推薦で行くのたが、僕は、まだやりたいこともないのにメーカーの研究や開発に入ったら、ずっと出られないんじゃないか?と思って、じゃあ何がやりたいのだろう?
と、人生で初めて何をしたいのか?考えた。

リクナビで色々な企業を見ていたら、コンサルティングという問題解決をする仕事というのに惹かれ受けていった。
「野村総研は興味ないかい?」と、就活担当の教授との面談で言われ、「あ、はい!」と答えて、OBを紹介いただいてそのまま受けることに。
コンサル部門はあるけど、電気工学科の学部卒で全然勉強をしてこなかったことに引け目を感じ、システムエンジニアで受けて内定をもらった。

そして社会人へ

大学の学部も、新卒での就職も、自分が何をやりたいか?から考えず、なんとなくの惰性や潰しが効きそうだからと選んできてしまったことは、たいてい入学や入社の初日でわかるもの。直感はウソつかないのだが、せっかくいいところにはいったんだからと言われるのもあり、なんとなく続けてしまうことが多かった。

NRIエンジニア時代

当時のNRIは300人超の大量採用だったのもあるのか、同期はキャラ採用だろう(人のことは言えないがw)と思われる面白い人達が多かった。
多過ぎて通常の寮には入り切らず、研修の宿泊施設が寮となった。
ここでもパーティー好きの面白い同期と部屋で爆音をかけて夜な夜な踊って盛り上がっていた。
時計を見ると夜中の3時頃、NRIの横浜のビルを見るとまだ多くの明かりがついていて、まだ働いてるのかー、と思ったのを思い出す、ら

いよいよ研修を終えて、配属されて初の出社で挨拶をするも、みんなPCに顔を向けてチラ見する程度。
えー、なんなの?ここは・・・とんでもないところに来てしまった。。
と思ったものの、すぐに慣れて自分も挨拶しなくなってしまう所が怖い。

仕事としては、決められた仕様通りにシステムを設計し、協力会社の人に伝えて開発してもらい結果をチェックし、問題なく動くようにする。
夜間リリース対応で徹夜もしょっちゅう。
キツかったのは、夜間トラブル担当で、週に2-3日は、何らかのトラブルで深夜に起こされ、PCを開けて修正する日々。携帯が鳴ってパッと起きたと思ったら夢だったりしたこともある。

担当していたのは金融の投資情報系のシステムで、今でいうSaaS、そして後に、セールス|開発|CSといったチームの壁を越える組織開発テーマを扱ったり、SaaS企業の人事責任者をやったり、コーチングのクライアントでエンジニアやプロダクトマネージャが多かったりするのに繋がっているから面白い。

部や本部単位で年に一度、社員旅行があり、
新人芸や幹事をやったりしたが、
金曜仕事終えてから熱海や箱根に向かい、宴会して風呂入って寝て、朝起きたら殆ど帰ってていない。
この有り様に、
え、これは何のためにやってるんだろう?
と思った。今やっている合宿とは程遠い笑

ITコンサルタント時代

このままではどうしても仕事にやりがいを見出せずにまずいと、転職活動を始め、外資コンサルファームから内定をもらって、厳しそうな職場だけど頑張るぞ!と意気込んでいたら、部長から呼び出され、それならうちでもできるだろうと、システムコンサルティング部門へ異動することに。

新卒は配属されない部門だったので、自分が1番若かったが、これまでシステムと向き合う仕事と違って、お客さんと仕事で直接会話できることに感動。
これまではトラブル時の電話対応くらいだったのだ。うんうん、仕事で誰かの役に立つことなのだけど、直接お客さまに触れるって大事よね。
出張も多く、お客さんや先輩と出張先や移動中に色々な話を聞くのが楽しかった。

この部門では、当時新卒採用がなく、毎月のように中途の人が入社してくるという環境もあり、新しく入った人たちがスムーズに立ち上がれるよう、「シスコン塾」という組織活性化活動をやっていた。
性格診断のワークショップをやったり、入社した人と既存メンバー全員との1on1をセットしたり。今でいうと、入社後のオンボーディングの一部をやっていたのだなと思う。
その活動のワークショップを企画する際、他部門の組織開発をやってるチームの先輩から進め方を教わった。後に僕がそのチームにジョインしていく流れになると、今思うとつながっているのだなーと感じている。

本部旅行では幹事をやることになり、中途入社の方々に新人芸をやらせるのもどうかと思い、全員が参加できて意味がありそうなクイズ大会を企画しし。
会社の経営理念を映し出し、穴埋め問題を出したところ、なんとなんと役員・部長陣含め誰も答えられなかったこと会場はザワザワ。後にみんなで理念を唱和して盛り上がって、ニヤニヤしていた自分を思い出す。
この辺からビジョンや理念って当たり前のように掲げているけど、これって一体なんなんだろう?と関心が高まっているのを感じる。

大きな転機となったのが、大手化粧品会社のEC構築の大プロジェクト。僕はオンラインで美容カウンセリングをするサービスの担当。ZOOMもまだない時代で当時としては先進的であった。

ITコンサルタントとしての役割は、業務とシステムの要件定義をしていくこと。なのだが、プロジェクトを進めるために、2つのポイントが大事だなーとなんとなく感じていた。

1つは、
顧客の組織が縦割りで、同じ社内なのに別の部署のことを、なぜか、ウチとヨソと呼び、対立構造にあること。

・新規事業部門 vs IT部門
・マーケ部門 vs セールス部門
・物流チーム vs CSチーム

など。あらゆる部門やチーム間、個人間のいたる所に壁があり、 プロジェクトが進まない、決まらないという状態を、各者の間に入って、調整していかないと、前に進まなかった。

この時、自然と重視していたと思うのが、各ステークホルダーの感情。
各者が自分の立場からモノを言う組織で、「私見ですが」と前置きを置くクセや、他のチームは敵とみなすような感じにびっくりしたが、お客さんがどんな想いでどんなサービスを作りたいか?ということを引き出すことで、現状の利害関係(本当は同じ船のはずなのに)でなく、いいサービスができているという未来への同盟関係をなんとか間に入って創っていったのだと、今では思う。

もう1つは、
美容カウンセリングをオンラインで提供するためには、業務とシステムができればいいという話ではなく、

・顧客がどんなサービス体験をしてどんな価値を感じるのか?が大事
・美容カウンセラーの方々のモチベーションとチームワークがないといいサービスが提供できるわけがない

と思い、当時最初の頃のブームとなった、デザイン思考で顧客体験をデザインするワークショップやチームビルディングのワークショップを書籍を漁ったり人に聞いたりしてやってみた。
これに夢中になってやっていると、相手の変化が手にとるようにわかり、
ああ、この仕事を本業としてやっていきたいなーと思い始めた瞬間だった。

一方、当時の戦友であるシステムエンジニアの方達が、システム構築ということにおいて優秀過ぎて、ああ、システムの仕事はこういう人たちが向いてるんだなー、明らかに僕の特性からすると違うんだなーと、自分の才能/非才能領域に気づき決心がついた時でもあった。
棚上げして誤魔化し、なんとなくやっていたことに向き合う必然性があった。

自分のやりたい仕事を発見したと同時に、システム系の仕事がしんどくなってきた。
超細かいポイント制度を設計したり、キングジム何冊分かの現行システムの仕様書を読み解き、次のシステムの構想に落とすなど、かなりしんどかった。夜中まで作業して上司に送って、夜中にフィードバックが来たり、顧客とのミーティング中に、顧客と上司で詰められることは辛く、どん底にいる感覚であった。

今思うと、自分がこれからやっていく未来が見えると、なんとなくうまくやっていた「現状」というものが崩れてぐちゃぐちゃになっていたのだなーと思うが、当時はしんどかった。

パリピ時代

ここまで、周りから見ると順調にステップアップしていそうに見えても、
自分がやりたいことで価値を出せることは何か?と、もがき続けてきたと思う。
特にシステム系の仕事をやっていた社会人の前半は、ダンスをやっていたというのもあって、クラブやフェスに行くのにハマり、友人としょっちゅう遊びに行っていた。
そして、DJを始めたり、仲間達とフェスを企画してやってきた。船上パーティや銭湯を貸し切ったり、富士山の麓のキャンプ場でガチな野外フェスをやったことも。
当時は完全に遊びだと思っていたが、僕は踊りながら、曲をかけながら、
普段の仕事から離れた非日常な環境で、いつも「自分はこれからどうしたいのだろうか?」「この場がもっと盛り上がるにはどうしたらいいんだろう?」などを考えていて、これが現在やっている、コーチングや合宿に直結しているとは、当時は思いもよらなかった。

組織開発の社内ベンチャーへ参画

ここからいよいよ、自分にとっての本当にやりたい仕事をやれてくる。

まだチームにジョインしてもいないのに、勉強会に来てみる?と言われて参加し、来月は仙台に合宿に行くけど行くかい?と言われ、え、合宿で仕事でいくもんなんですか?と衝撃を受ける。
ほぼ毎月、チームの合宿があり、顧客とのワークショップや合宿を企画・ファシリテーションする日々。
合宿人はここから始まったと言えると思う。

1on1のコーチング(後で成長支援カウンセリングと気づく)でクライアントのその人らしさを解放し、チームに対するワークショップや合宿でビジョンを描いて一致団結を創ることをとにかくたくさんやってきた。
え、これが仕事でいいの?これまでの仕事は何だったんだ?
と思うほど、水を得た魚のようにイキイキと仕事ができた。
仕事が楽しくていいんですか?くらいに思い、自さては、これは誰でも楽しくて成果が出るんじゃないか?と思ったこともあったが、何人かコンサルとしては優秀な人が、チームにお試しで来ては抜けていったので、どうやらみんなそういうわけでもないらしい。

特に、3年続けてエンタメ会社の全社合宿を、顧客の企画チームを立ち上げて一緒に企画・運営し、合宿のたびに人数が増え、最後は300人規模になって、箱根のホテルに一堂に会して未来を語るエネルギーはすごかった!
この時確かfacebookで「300人でいい全社合宿をやるような会社が増えるといいなー」といったことを投稿したのを思い出し、合宿人の「チームで最高の合宿をする文化を当たり前に」というビジョンの原体験となっている。
その規模の合宿をやり遂げたことで、1000人超えてもいくらでも合宿をできる自信につながっている。

また、このチームでの「自分たちがやってることしか提供しない」という考えに共鳴し、チームで対話や合宿や勉強会も遊びもどんどんやる文化が好きだった。
僕も新しい学びの企画は好きで、チームで裁判を傍聴に行って世の中の世知辛さを感じたり、リアル脱出ゲームでワイワイ盛り上がっていた。
ほぼ毎月やっているチーム合宿も率先して企画していった。

これまでは、コンサルタントや研修会社が提供していることを自ら実践していないというものに違和感を感じていたので、やっぱり自分たちで実践しなきゃできないというのは、今でも大事にしている。

もちろん心地よいことだけじゃなくて、仕事がキツい・つまらないというじげんでなく、「自分」というものと向き合わさせられる、しんどい瞬間もたくさんあった。
初めてリーダーを任された、顧客の新規事業チームを立ち上げるプロジェクトでは、うまくいっていないことを誤魔化す自分を先輩に指摘され、初めて仕事の場で泣いたのを覚えている。

そして、やっとチームに正式にジョインしたと思ったら、独立するという話が出てきた。
「えー、そこまでは考えてなかったんですけど」
と思いつつも、このチームの面白い所が、
1年かけて自分たちの対話を通して独立するというプロセスをみんなでつくっていくのだ。もちろん合宿も交えながら。
あくまで個人としてどうしたいのか?があって、チームとしてどうするか?というのを丁寧に話して向き合い続ける日々。もちろんお客様へのサービスは続けながら。
ここにも色々なドラマがあり、結果4人で共同創業することに。

Ideal Leaders共同創業

13年勤めたNRIを初めて出て、そんなかんだで組織開発コンサルティング会社を4人で共同創業。
最初は、会社をつくるという手続きから給料まで、会社のビジョン・ミッション・バリューに基づいた、ルールを自分たちで考えて決めるということが面白かった。これがベンチャーか!

また、なんだかんだこれまでは、成果を出しても出さなくても給料は会社から出ていたが、これからはチームで力を合わせて稼がなければ給料は出ない。ちょっと考えてみたら当たり前のこの感覚を初めて味わったが、これは会社に所属する/しないに関わらず、仕事をする全ての人はこの感覚を持った方がいいと思ってる。

「立場や責任が人をつくる」とも言われるように、僕はこの共同創業時点では、どちらかというと「付いていく」感じだったが、4人を中心にやるっきゃない!という環境を自分で選んだことでスイッチが入り、力をつけていったと思う。

NRIにいた時はほとんど付き合うことのなかった、ベンチャー・スタートアップの経営者と会うようになったのもここから。

事業は順調であったが、自分たちに徹底的に向き合うチームであるが故に見えてしまうチームの停滞間や葛藤、そしてその扱いの難しさ。
停滞気味な大企業の研修仕事よりも、未来を創るしか先がないベンチャー企業向けに、より柔軟に貢献していきたいと思い、独立を決める。

後半はモヤモヤ葛藤する日々もあり、色々なドラマがあった。
自分で独立することを告げた瞬間は、「えー、なんで?」という反応であったが、理解されなくてもいいと思っていたが、自分とチームの進化のためにはこれが一番インパクトがあることなのだという確信が自分の中にはあった。
結果、その1ヶ月後にはチームは僕が抜けるだけでなく、大きな変容を迎える事になる。この辺は各者なりのストーリーがあると思うので、詳細は会った時にでもお話ししたい。

この体験から、
・一見うまくいってそうに見えても、個人、チームで感じているモヤモヤや葛藤は、必ず顕在化してくることへの確信
・どんなチームでも、現状の関係性を破壊してから、新たな関係性を結び直すことができるへの自信

を持つようになったことが、今の僕の組織開発やチームビルディングでのコアになっている。水面下での火種が見えてしまう。
自分チームのことをどこまで扱えているか?によって人にどこまで踏み込んで関われるかが決まる。
NRI→共同創業にかけて、何度も合宿を重ねてみんなでつくった、ビジョン、ミッション、バリューの中でも、
Dance with chaosというバリューをまさに最後に体現できたこと、これも僕にとって大きな礎となっている。

Co-Creations創業

社名については、ほぼほぼ最初から決めていた。
僕自身の、価値観の最上位である
「Co-Creation 」
それそのものとなり、これからたくさん起こしていくので、複数形にして
「Co-Creations」とした。

1度みんなで会社をつくるというプロセスを体験していたから、やること自体は自分1人でやるだけだったが、この時感じたのは解放感は束の間に、やってきたのは孤独感。
毎週月曜9時にオフィスに行かなくていい代わりに、全部自分で決める必要がある。

ありがたいことに、これまで支援していたクライアントワークを継続させていただけたので、立ち上がりから仕事があるということにおいては、あまり苦労しなかった。
そしてこれまで、大企業向けの高単価でできなかった、ベンチャー企業向けの組織開発コンサルの仕事も増やしていった。
・経営者へのコーチングから、ビジョン・ミッション・バリューの策定、経営合宿から全社合宿まで。

特に印象に残っている合宿
・山梨のロッジでの2社合同経営合宿
・沖縄の今帰仁での経営合宿
・湯河原での全社合宿
・熱海での創業経営合宿
・千葉の田園での経営合宿
・沖縄の現地のパートナーとコラボでやった経営者合宿

これらをやってきてから、
なぜか合宿中や合宿直後に現実が変わる奇跡が起きてきたのを目の当たりにして、
合宿ではビジョンや戦略などの目的ありきでこれらを達成するのも大事だけど、それよりも、

「合宿で最高の体験をすれば、うまくいく」

という感覚が培われてきた。

本物のコーチングに出会う

自分で創業する1年前くらいから、Mindset社の李英俊さんに出会い、今までやってきた共感・傾聴ベースのコーチングと呼ばれるものは、「成長支援カウンセリング」であることに衝撃を受ける。
大事にしている価値観らへんはさわるものの、肝心な「現状の外のゴールを設定し、チャレンジしていく」というがない。
なんとなく、クライアントのモヤモヤを聞いてスッキリさせる気持ちよさは得られても、日常が変わっていないことへ、今のコーチングを続けていても大した成果は出ないよなーとちょうど感じていた。

Mindset Coaching Schoolの1期に即飛び込み、僕のコーチングは完全にアップデートされ、それ以降、コーチングでの成果は劇的に変わった。

また、「組織開発」というのも、ゆるふわチームビルディングをやっていても大した価値はなくて、採用、教育、配置、評価、報酬、労務、代謝までの人事機能をやらないと、コーチングを受けて気づき、CHRO(人事責任者)として戦略人事へのチャレンジを設定することに。

人事未経験で茅ヶ崎のベンチャーのCHROへ

さて、CHROになって戦略人事として組織を成長させようと決めたら、どこのCHRO をやろうか?という無意識のアンテナが立ち、これまではどこかから美味しいオファーないかなー?なんて妄想していたが、
「そうだ、自分の価値を一番感じてくれていて、自分が好きな会社でやりたい!」
と思ったら、すぐに答えが出たのが、
茅ヶ崎にあるシッピーノというEC向けのITサービスのベンチャー。
社員・パートナーを合わせて30人位の組織。
元々、組織開発コンサルとして1年程支援してきて、茅ヶ崎のビーチ目の前という最高のロケーションのオフィスに毎月行くのが楽しみだった。
働く人たちも、仕事だけでなく趣味や家族の人生全体の豊かさを大事にしているのが素敵だった。

早速社長に告白して、人事責任者やりたいんですけどと伝えたら、ありがたいことに、ぜひ!と即答してくれた。
こうして人事未経験からCHROになることが、決めてから1週間で決まった。

コーチングではゴールへ「決断」することで、現状の外のゴールへ踏み出すことになる。機会があったらCHROと思っていたが、決めたら一瞬で機会は訪れた。
ゴールを設定して決断したら、いつかやりたいなと待っていてもダメで、とにかくお願いしまくってみるのってめっちゃ大事。

しかもちょうどその頃、新型コロナ禍が始まり、最初からリモートでのCHROをやることになったが、錦糸町→茅ヶ崎へは週1通うという話だったので、むしろやりやすくなった。
シッピーノでは、採用、配置、教育、評価、報酬、労務まで、人事の全機能をやったが、社長と僕の想いとして、個人も組織もハッピーな組織を作ろいうという話をして、その土台として最初にやったのはこの2つ。

・全員との1on1コーチングにより、各自の強み・価値観と仕事だけでなく人生各領域のゴールを設定する
・各自の価値観・ゴールをベースに、組織のゴールとなるビジョン・ミッション・バリューをみんなで作る

これによって、自分の役割を超えて、主体的な行動が起こるようになっていった。
当時の感覚はこちらに書き留めているのでよかったらどうぞ!

この時つくったビジョンというより、パーパスやミッションの方が近い感じだが、

「働くを彩り、人生を豊かにする」

は、今でも自分の一部と感じている。
そう、自分事として創るのに関わった、ビジョンやパーパスは組織を離れても何らかの形で生き続けているのを感じる。
所属組織が変わる度に、目指すビジョンがコロコロ変わるようだと、それは自分の個人のものとリンクしていない、have toで受身になってしまうものになると思う。

他にも、これまでやってきた組織開発コンサルでは、ビジョン・ミッション・バリューを作って、それを実現するための対話会などの活動を立ち上げて伴走するまでだったが、内部の人として取り組むと、実現するためには、合う人を採用して配置して教育していくなどまでやる必要がある。

そこで次に取り組んだのが、
「未来の理想の組織図」
を作ること。
ビジョン・戦略から中期目標を設定するまではいいが、それを実現していくのは人である。

ここでよくやってしまうのが、理想を描くものの、やるのは今いる人達を前提にすること。これではAさんには成長してもらって、この役割をになってもらう必要があるが、うーんどうかなー、いけるかなー、なんとかやってほしいという無理な期待が混じったものになってしまうことを見てきた。

そのため、理想の状態を描いたのなら、それを実現する組織も理想から描く必要があると考え、事業の目標が達成できているとした際の、理想の組織図を入れて作っていった。
そこで、今いる人のwant toや強みがあり、成長して担えそうならその人の名前が入るし、今いる人で担える人がいなさそうな場合は、Xさんと置いて、採用することになる。
そう、未来の組織図が採用要件になるのだ。

こんな感じで、採用要件も決まり、実際の採用の実務もしてきた。
wantedlyやindeed等の媒体の求人票を書くのも初めてであったし、エントリーしてきてカジュアル面談からやるのも初めて。
コーチでもある自分が面談するので、エントリーしてきた人が、どんな価値観や強みがあって、何を目指しているのかを掘り下げて・イメージアップしていった。
また、会社のカルチャーを語ることで相手の反応が変わることも、面白くやっていた。

ただ、思うようにいかなかったこともたくさんある。
「早くうちに来てもらいたい」「この人が来てくれなかったら大変だ」こういった無意識のバイアスがあり、ちょっと引っかかることがあっても、採用して入社してもらうようにした。
だが、今思うと、採用活動時のちょっとした無意識の違和感は、大体当たっているもので、そうやって来ていただいた方々はワークしなかった。
ここでも無意識で気になっていることや、対立や葛藤は後で必ず顕在化してくるということへの確信が高まった。


その後色々あって、新規事業を分社化というプロセスを経て、僕は新会社の取締役CHROとなったが、3ヶ月経って辞める決断をした。
その時の感覚はこちらに書き留めている。

その頃、並行して、オンラインでのコーチングやファシリテーションの予定が詰まった予定表を見て、それほどワクワクしていない自分に気づいてくる。
「僕の仕事で最もwant toなものはなんだろう?」
と思った所、「合宿だ!」と気づいた瞬間だ。

ここから「合宿人(がっしゅくじん)」の立ち上げにつながってくる。


思えば、組織開発の世界に入ってから、ずーっと合宿というものが共にあったし、
よく合宿に来て下さいと誘われるし、
家族でも旅行に何かテーマとチャレンジを入れる家族合宿化しているし(企画するのは主に妻)、
合宿だけは一生やり続けることが決まっていると思った。

合宿でみんなで最高の体験をするたびに、ああ、全てのチームが合宿やったらいいのになー、そしたらいいチームが増えるのになーという謎の確信があった。
でも自分はコーチであり組織開発コンサルタントだから、そっちがメインで合宿はサブである(べきだ)と思い込んでいた。
でも事実として、これまで好きであることはもちろん、価値を出している瞬間も合宿であった。
合宿は好きで楽しいから、遊びの感覚でやっていたものこそが、天職であった。家族にも合宿?遊びに行くのねという印象だった。

気づいてからは早くて、合宿好きそうな周りの人達に声をかけて話していったら、いいですね〜
となり、1ヶ月で合宿好きが50人以上も集まった。
このモメンタム(勢い)すごい!これがwant toパワーか!と自分でも驚いた。

合宿人立ち上げた時の感覚はこちらから。

これまで会社を作っていたが、合宿人は全然違う感覚だった。
「最高の合宿を増やすことで、最高のチームを増やす」
これまでは組織における問題解決は、依頼ベースで支援していたが、
合宿人は「組織の進化の起点となる合宿を増やす」という明確な旗を立てた感覚だ。実際に旗をつくり、合宿に行った地に立てている。

そこからのスピードは速いもので、2022年はとにかく合宿をたくさんやった。クライアント企業の経営陣、全従業員、コーチ仲間、サウナ仲間、フェス仲間、家族、そして1人でも、合宿を毎週のようにやっていった。
合宿をやる度に、ビジョンが描かれ、お互いの深いつながりと新たな可能性の共創が生まれ、ああやっぱりこれだ!と確信していっている。

チームで相互理解を深め未来を語り合う、最高の体験をすることで未来へのモメンタムを上げる合宿を「未来合宿」と名づけた。合宿人を立ち上げた直後に「全社合宿をやりたい」と声をかけていただいた、アンジェラックスさんの合宿人として最初の未来合宿がこちら。
働きがいのある会社ランキングで上位常連であり、「最高のチームは最高の合宿をする」と思っていたことへの確信が高まった。

直近アップデートしたビジョンでは、
「チームで最高の合宿をする文化を当たり前にする」

これを通して、多様な面白いチームが増え、世の中ぎ面白くなっていく
こんな世界を観るためにチャレンジは続いていく。

趣味のチャレンジ

コーチングでは、仕事だけでなく、人生を、8つの領域に分けていて、
全方位にゴールを設定していくもの。
仕事のゴールだけ達成しても、他の家庭や趣味がボロボロだとトータルの幸福度は下がってしまうし、大きなチャレンジをしていくためには、自分1人ではなくゴールへ加速させてくれるような「人間関係」や、それに耐え得る心身という「健康」のゴールが必要になり、各領域は密接に関わり合っているから。
ということで、趣味についても書いていきます。

空手

筋肉の肥大化ではなく、パフォーマンスUPを目的としたファンクショナルなパーソナルトレーニング3年位受けていく中で、身体だけでなくストレス耐性やクリエイティビティなど人生のパフォーマンスが変わり、トレーニング自体がコンフォートゾーンとなった時、トレーナーから、何か競技にチャレンジしてみませんか?と言われたのがきっかけ。

さて何やろうかなーと思っていたら、
そういえば、高校の頃から、K-1やプライドといった格闘技を観るのが好きだったことを思い出す。だが当時は自分がやるものではないと思っていた。
そうだ、格闘技をやってみよう!
打撃が決まった時のスカッとした感じが観ていて好きだったので、キックボクシングか空手をやってみようと思ったら、すぐに無意識のアンテナが立ち、近所にフィットネス感覚で気軽にいけそうな空手教室を見つけたので即体験へ。行ってみると、先生は極真空手の元世界チャンピオンで、型や組手をバリバリやる感じで、馴染みやすく本格的であった。試合に出場する選手もいて、入り口は入りやすく、かつ大会まで出れる道があるという環境は理想的だった。

最初は、ミットにパンチやキックしたり、相手のを受けたりすること自体がこれまでやったこと・受けたことのない衝撃で、アドレナリンがでて楽しかった。こうして週1-2回楽しく続けること自体がコンフォートゾーンになっていった。
この時期設定したチャレンジとして、試合に出るということだった。
教室で始めたのも遅く、最弱であったが試合に出ることを決めて、先生へ伝えて出ることとになった。
言い出してからは、稽古のペースが週4-5回になり、特訓クラスも作ってくれて、身体中あざだらけになりながら3ヶ月程経ったのちに初めて組手(ガチで戦うやつ)の試合を迎えた。ガチで殴り合うなんて、子供の頃から喧嘩を避けてやってこなかったし、人生初の経験。この時の前の夜、ボコボコにされる悪夢を見てあまり眠れなかったのを思い出す。
結果は、一方的にボコボコにされ敗戦だったが、恐れを感じながらもチャレンジするという感覚は人生に大きなインパクトがある。
この時の感覚はこちら。

自転車

自転車で移動するのは爽快で好きで、NRI時代からクロスバイクで30分ほど自転車通勤をしていた。
コロナ禍に突入し海外旅行に行けなくなった夏休み、なんと自転車に乗らない妻が、家族で愛媛の今治〜広島の尾道まで、サイクリングの聖地である、しまなみ海道走破チャレンジを企画してくれた。

当時小3の息子も自転車にはあまり乗っていない中、季節は真夏の灼熱の時期、え、本当に大丈夫?と思いながらもチャレンジ。
実際行ってみると、二人をサポートしながら2泊3日かけて70キロを走破することができた。
こうして、ちょこっと趣味だったものが、家族で楽しむ趣味となり、自転車旅が定番になっていむ。また、「合宿人」を立ち上げる際、これは合宿だ!と思い、家族旅行の進化版として、何かテーマを持ってチャレンジをする家族合宿につながり、先日2023年のゴールデンウィークには家族で琵琶湖一周(通称ビワイチ)を走ってきた。
自分が細々と続けてきた楽しみが、時間を経て、家族の趣味になったという展開も面白いが、偶然ではなく、
これも、家族のゴールとして、「何か一緒にチャレンジする」というのを設定していることと繋がっている。

また、空手の試合に出た直後の勢いで、殴る蹴るされないんだから、自転車のレースは大丈夫でしょーと、勢いでロードレースに申し込んで出ることになった。
結果は、周りの圧倒的な速さにびっくり。10キロほどのアップダウンあるコースを20周するのだが、スタート時点からついていけず、最後尾のバイクから追いかけられる始末で、2周目から退場させられた。それでも最後1人の背中が見えてからは追いかけ抜かすことができた。
退場後に待機していると、下り坂のスピードが出たところで落車し怪我する人が続出し、「うわー危なかったなー」と後からビビった。
この時の感覚をこちらに生々しく描いたこちらは、始めてnoteでプチバズりにもなった。

その後も2回レースに出場し、自分なりにタイムを上げていったり、
家族でマウンテンバイクをやったりと、自転車も生涯の趣味として続けていく。今度は、ヒルクライム(山登り)にチャレンジしたい。

ダンスワークショップ

「パリピ時代」で上述した通り、ダンスに目覚めた大学以降、DJをやったり、フェスに行ったり、仲間達とイベントをやったり、何かと音楽・ダンスというのは大きなものとなっている。

大きかったのが、コロナ禍前の2019年に行った、Wisdom2.0という、サンフランシスコでのマインドフルネスのカンファレンス。英語力が不十分であったため、講演は割り切ってスルーし、僕が1日中入り浸ったのは、ヨガ、瞑想、気功の身体ワークショップの部屋。
朝一にその部屋の扉を開けると、びっくり衝撃的だったのが、ノリノリの音楽に合わせて踊っているではないか。
30秒位様子を見て僕も踊り出し、楽しい〜と夢中になっていると、どうやらみんな好き勝手踊っているわけでなく、緩やかに指示を出しているファシリテーターがいるぞ。
そのファシリテーターのガイドに合わせて、みんな動きや踊りを変え、全体が調和していく。なんだこれは!!?
どうやらダンス・ムーブメント系のワークショップらしい。

この時、ちょうどマインドフルネスがブームで、瞑想を中心としたイメージであったが、僕はサンフランシスコまで行って気づいたのは、ああ、これはみんなコアな部分(といっても結構ゆるそう)は大事にしながらも、みんな色々な形を創り出し楽しんでるんだなーと感じた。
この体験がとにかく最高で、帰国したら早速探し、その後ビオダンサというダンスワークショップにのめり込んでいった。
これも前述の通り、合宿において身体を自由に動かすワークやDJタイムで自由に踊ることへ繋がっている。
その後、そのカンファレンスは日本でも開催されたが、ダンスワークショップは入ってなかったのは、日本でのイメージに合うものがチョイスされている気がして少し残念に感じたのを覚えている。

踊れる/踊れないということや、振り付けを覚えることが一切なく、
自己表現・解放と人とのつながりを感じられるダンスワークショップはどんな人にもおすすめしたい。


柔術

空手の試合に出るようになって2年ほど、試合が近づいてきた時、直前の緊張感はいい刺激として感じるものの、試合に出ることは当たり前のようになってきたが、1度しか勝つことができなかった。シニアの大会だと、選手も少ないため、軽量級/重量級の区別がなく、+5~15kg位と一回り以上大きい相手と当たることが多く、押され負けすることがほとんど。これも言い訳ちっくだが。いつの間にか、試合には出るものの、負けることがコンフォートゾーンとなっていた。
こちらもMindsetがパーソナルトレーニングと共に、柔術やヨガ・ボクシングのジムを立ち上げたことを機に、2022年から始めた柔術。
最初は空手をメインにしていて、週1回程通う感じだったが、2023年に突入し、世界チャンピオンの村田良蔵先生から気合いを入れられ、柔術の試合に出ることを決意。良蔵先生からは「試合に出るだけじゃなくて、勝つんだよ」と言われて、ハッとした。
そこからはスイッチが入り、迎えた柔術の大会YAWARA杯で、先輩に何とか勝利することができた。

この時、「勝ちに行って、勝つ」ということができ何とも気持ち良い感覚だった。これからもっとしなやかに強くなっていこうと思う。
柔術は、体重も大体同じ相手と当たるのと、「この体勢の時はこう守る、こう攻める」というのがたくさんあり、ガチで取っ組み合いながらも、頭をロジカルに使う必要がある。そのため、新たな動きを覚えて稽古で使うたびに上手くなっていくのが目に見えてくる。できなかったことがどんどんできるようになっていく感覚がとても楽しい。
また、仕事においても、こんな時どうする?という思考が働き、どんな局面に置いてもゴールを目指していく脳の使い方にとても良い影響があるのを感じている。

趣味を増やすのが趣味

という感じで、僕は少しでも興味を持ったり、ご縁があったりしたことを、

・まず気軽にトライしてみる
・続けてみる
・試合に出てみる

こんなステップで広げていくのが好きで自然とやっている。

ここで趣味の観点から人生を振り返ってみると、
幼少期は好奇心旺盛で何でもやってみたくなっていたのが、中学受験〜高校生くらいまでは、「何かやってみたい」という気持ち自体を抑えていたんだなーと思う。
そして大学に入ってからダンスを本格的にやった頃から、want toは解放されて、新しいことをやってみることで世界が広がる面白さの味を占めてからは、仕事もやりたいことをやりたいなーと思うようになり、今とこれからに至っている。
何か1つのことを突き詰められない、こんな自分を「器用ビンボー」と思っていたこともあったが、
やってみたいことことをまずやってみて、もっとやりたければ続ける、さらにチャレンジしていく
こんな感じでやっていったら、「器用リッチ」というセルフイメージに変わっていった。
追求することをひとつに絞らなきゃいけないなんてことはないのだ。
好きなことはなんでも好きなだけやったらいい。

なので、趣味や遊びというのは、誰のためというわけでもなく、自由にやってみたいことをやっていけばいいし、これが仕事や他の領域にも影響し、人生全体を豊かにしていくことは間違いないので、オススメします。

まずこれまでやってきたこと、やってみたことを洗い出してみても150個位のリストができあがった。

その一部を挙げてみると、

・スキューバダイビング
・能の稽古
・歌舞伎観劇
・ラフティング
・演劇ワークショップ
・現代アート鑑賞
・ふわとろオムライスづくり(ナウ)
・日本酒の熱燗
・登山
・コンテンポラリーダンス
・スウェットロッジ(ネイティブアメリカンのサウナ儀式)

など。
これからやってみたいこともたくさんあって、

・スカイダイビング(バンジーも)
・無人島サバイバル合宿
・マウンテンバイクのダウンヒル
・キャンプファイヤー

など。
機会はあったら、ではなく、創るものなのでやってみたいという人がいたら、どなたかご一緒できたらと思う。

このリストを人に見せてみたら、やってみたいことの候補を見つけるのにとてもいいとのことだったので、

・仕事と家庭で人生が完結し、やりたいことを何かやってみたい
・何か新しくやってみたいのだけど、何をやってみたらいいかがわからない

こんな人たちのお役に立てたらと思うので、見てみたいという人は要望いただけたらと思います!

見えて来たwant toの源泉

ここまで、僕の人生を、want to(価値観)とゴールから振り返ってきました。
こうして見てみると、僕のwant to「Co-Creation」の奥にあるエネルギーの源泉としては、
「日常はつまらない」
という感覚。ちょっと大声で言うのには抵抗があるが、この感覚は根底に流れていると思う。
だから、常に何か新しく面白いことを探しているし、見つけたらまずやってみるという行動が人生のどの時代を見ても見られる。それが、やりやすい環境だったり、やりにくい環境だったとしても、何かしら現れている。
「日常はつまらない、だからこそ、面白いことをやる」
こんな感じで原動力となっている。
そして、この感覚は、自分だけに限らず、仕事のチームや家族や遊び仲間においてもあり、何も変えようとしないと固定的な関係性は停滞につながり、葛藤や対立が生まれ、顕在化してくる。こういう感覚を確かに持っているし、また、一見わかりにくい水面下の葛藤や対立、停滞感を敏感に察知している。
だから、合宿という非日常の最高の体験の演出だったり、やったことないことをやってみてチャレンジしていくということにつながっている。
「日常を非日常化していく」
同じ状態を維持することなく、これからどんどん変化を創っていきたいと思う。
せっかく生まれたのだから、人生も仕事も面白いことをたくさんやっていこうじゃないか!
これを自分に言い聞かせて、これからさらに面白いチャレンジをやっていこう!

改めてこれからどうしていきたいか?

面白いもので、want toとゴールの観点で人生を振り返ってみると、want toの精度と確信は高まり、ゴールについてもさらにアップデートされた感覚がある。
合宿人・組織開発コンサルタントとして、コーチとしてのゴール、

そしてこれらを通して、
あらゆることの「体験」というもののインパクトを最大化し、世の中を面白く盛り上げていきたいと思う。

具体的にイメージしていることとして、合宿とは切っても切り離せない「旅」というもの。僕も大好きなこの「旅」の体験インパクトを最大化することもやっていきたいと思う。
旅は、週末、ゴールデンウィーク、お盆、年末年始など、高額なお金を出して、混んでいる所へ、混んでいる移動手段で行くもの。提供する側は、いかに高級で、便利で、おもてなしをするか?に意識が行っているが、「旅の体験」においては、目的や関わる人と一緒に体験することや会話など、「旅をする人自身」の要素が大きいと思っている。
同じ体験をしていても、人によってはもちろん、意識状態によって、全く違う体験になるし、その違いがまた面白いと思うので、追究していきたい。「旅人と提供者のCo-Creation」により、旅の体験価値を最大化することを通して、世の中が面白く盛り上がっていけばと思う。
まだぼやっとしているけど、どんな形になるか楽しんで取り組んでいきたい。

最後に

僕の中では天職と思える、人と組織の進化を創る、コーチングと組織開発その中でも特に合宿へとつながっていった変遷を振り返ってみました。

冒頭に書いた通り、ここまで書いて思うのが、自分にとっての大事な価値観(want to)に基いたゴール、

・コーチとして、豊かな社会を創るチャレンジをするリーダーを覚醒させる
・合宿人として、チームで最高の合宿する文化を当たり前にする

これらから見て自分の人生を振り返ってみると、これから実現していくことは、自分の歴史から繋がってるんだなーとしみじみ実感。
そして、これからチャレンジしていくことへ、根拠ない自信であるエフィカシーが高まるのを感じているので、ぜひおすすめしたいです!

これから新たなチャレンジをしていきたくて、コーチングを受けて見たいという人もぜひ!


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