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本部御殿の初代・本部王子朝平

本部御殿もとぶうどぅんの初代は第二尚氏王統第10代・尚質王しょうしつおうの第6王子、唐名・尚弘信しょうこうしん、和名・本部王子朝平もとぶおうじちょうへいである。

尚弘信の略歴は、琉球王家の歴代の王族の経歴を記した『王代記』に記されている。それによると、生年は順治12(1655)年5月19日、没年は康煕26(1687)年8月27日である。童名は思松金うみまつがね、号は原静げんせい

母は本光ほんこう章氏しょううじ島袋親雲上正次しまぶくろぺーちんせいじの娘)。出身の章氏の元祖は中城若松なかぐすくわかまつ。中城若松は玉城朝薫たまぐすくちょうくん作の組踊「執心鐘入しゅうしんかねいり」(1719年)の主人公のモデルと言われている。

妻は、やはり章氏安谷屋親方正房あだにやうぇーかたせいぼうの娘、浦崎翁主うらさきおうしゅ。「翁主おうしゅ」とは、王女や王子妃の称号である。

正史『球陽』に以下の記述がある。

康煕五(1666)年、今帰仁邑なきじんむらの十一邑を分けて伊野波郡となし、初めて向弘信本部王子朝平に賜る。翌年、本部郡に改名する。

正史『球陽』(内閣文庫蔵)

これは今帰仁間切なきじんまぎり(現・今帰仁村)から11村を分割して伊野波郡いのはぐんを新設して本部王子朝平に国王が与え、翌年本部郡もとぶぐん(本部間切のこと、現・本部町)に改名したというものである。朝平はこのとき11歳、まだ元服前だったが琉球の大名になったわけである。これ以来、本部御殿は領地名の本部を家名として名乗ることになる。

朝平は、没後、宜野湾間切ぎのわんまぎり我如古墓がねこばかに葬られたと、『王代記』には記されている。現在の宜野湾市我如古地区にある本部御殿墓がこの墓のことで、2013年に宜野湾市教育委員会文化課によって調査が実施された。筆者も宗家(本部朝正)とともに、その際立ち会わせていただいた。

調査の初日、墓室の正面入口を塞ぐ石のすき間から、文化課の職員の方が懐中電灯で墓室内を照らすと、正面に朝平の厨子甕ずしがめ(骨壺)が安置されているのが確認できた。

本部王子朝平の厨子甕

厨子甕の正面には、赤字陰刻で以下の文言が記されていた。

國王尚質王加那志第六男
尚姓本部王子朝平
唐名尚弘信 号原静
童名思松金
大清康煕二十六年丁卯八月廿七日
薨去

注:康煕26年=1687年


この時の文化課の方々のどよめきがいまでも筆者には印象に残っている。王族の墓が発見されたのも驚きだったようだが、厨子甕も前例を見ない様式のものだったからである。

通常、厨子甕の銘書みがちは墨書で記すのだが、石を彫って字を刻み、さらにそれを朱色に染めるというのは類例がないそうだ。おそらく朝平の死は当時の王家内で大きな衝撃だったのであろう。その葬送並びに埋葬にあたって、特別の配慮があったものと推察される。

また、この御墓は墓室の前の墓庭が前庭(一番庭)、外庭(二番庭)に分かれてひな壇形式になっているのだが、これも非常に珍しいと文化課の方から説明があった。割合としては沖縄の亀甲墓のうちで1%以下だそうである。

本部御殿墓の外庭から前庭を望む。2022年。

上の写真にあるように、前庭と外庭の段差は1m近くある。危険なので現在は向かって右の階段にさらに石段と手すりが設けられた。

上原先生は本部御殿が六男の家系なのに廃藩置県まで断絶せずによく続いた、きっと特別な家柄なのだろうと感想を語っておられたが、この御墓の特殊な構造や厨子甕の特徴からそういうこともあるのかしらと思った。

本部王子朝平とその周辺の人々

出典:
「初代・尚弘信、本部王子朝平」(アメブロ、2017年1月3日)。


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