本部流

流派の歴史紹介及び空手史の考察。本部流は本部朝基が開いた本部拳法と本部家の家伝である本…

本部流

流派の歴史紹介及び空手史の考察。本部流は本部朝基が開いた本部拳法と本部家の家伝である本部御殿手の2つの流派の総称です。執筆者は本部直樹。 2023年4月、アメブロ「本部流のブログ」より移行。 https://www.motobu-ryu.org/

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空手家最古の肖像画

琉球王国時代の空手家の肖像画というものは少ない。少ないというかほとんどない。唐手佐久川や真壁チャーングヮーはどういう顔をしていたのであろうか。 そもそも琉球王国時代に描かれた肖像画というのは先日発見された国王の「御後絵」のような例を除くと、ほとんどないように思う。著名な政治家を思い浮かべても、蔡温はあるが羽地朝秀はない。「沖縄三十六歌仙」でも、いま思い起こしても一人も肖像画は残されていないように思う。本部御殿五世の本部按司朝救もその一人だが。 それゆえ、空手(当時はティー

    • 複数敵と戦うということ

      競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露されることはあるが、そうした演武目的以外で、複数敵と戦う稽古を普段からするということは一般的ではない。 そうした中で、本部御殿手は例外的に普段から複数敵を相手にした稽古を重視している流派である。 複数を相手にした稽古は、本部拳法にもある。実際、本部朝基は複数の敵に襲撃されたことがあったし、またそうした状況からいかに脱出し

      • 空手の突きと柔術の突きの違い

        空手の突きと柔術の突きの違いについては、以前アメブロのほうで述べたことあるが、最近SNSでその話題が持ち上がっていたので改めて紹介したいと思う。 例として中段正拳突きを挙げると、空手の突きの特徴は以下のようになる。 ・引き手に構える。しばしば引き手側から突く。 ・手首を内旋させながら手の甲を上向きにして突く。 ・親指は四指で握り込まないで、人差し指の上に置く。 これに対して、柔術の突きの特徴は以下の通りとなる。 ・引き手に構えない。 ・手首は内旋させないで突く。 ・親

        • 嘘の型

          先日、名嘉真朝増先生の孫弟子の方から、少林流松村正統の祖堅方範先生が名嘉真先生からピンアン初段と二段を習ったという話を記事に書いたが、その方から祖堅先生の「白鶴」の型についても興味深い話を伺った。 YouTubeに祖堅先生の白鶴の型がアップロードされているが、実はこれは外国での演武で即席に創作した嘘の型だそうである。この話を名嘉真先生の孫弟子の方は祖堅先生の直弟子から直接聞いたという。 筆者は部外者なので真偽の判断はできないが、この話を伺ったとき、いかにもあり得ると思った

        空手家最古の肖像画

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          山根流棒術の家元と師範

          Facebookで山根流棒術の伝系について質問があって簡単な回答をさせていただいたが、改めてブログでもこのことについて書いておこうと思う。 山根流は沖縄では明確に「家元(宗家)」を名乗った世襲流派である。下記の比嘉清徳先生に出された山根流の師範免許でも「家元 知念正美」の署名がある。 家元もしくは宗家は日本武道で使われる称号である。元来は世襲が大半だが、明治以降、武道が衰退して親族に後継者がいない場合、非血縁者の高弟の中から選ばれる場合もある。ただしその場合でも、先代家元

          山根流棒術の家元と師範

          型少数主義と松村宗棍の真髄

          以前、三木二三郎・高田瑞穂共著『拳法概説』(1930)に記載の屋部憲通の「型の数」の話を紹介したことがある。もう一度、同じ箇所を引用する。 上記によると、屋部先生は20年以上、二つの型しか練習していなかった。三木と高田はこの話を聞いて驚いた。そして、これこそ、空手の達人の有るべき姿であると感動したという。 屋部先生と親友だった本部朝基も「型はナイハンチだけでいい」という考えだったことはよく知られている。もちろん、実際には、白熊やセイサンやパッサイも教えていたが、それでもそ

          型少数主義と松村宗棍の真髄

          名嘉真朝増の影響力

          空手の歴史を研究していると、こんな疑問を抱くことがある。それはある流派の型がいつのまにか増えていって、その過程が明らかでないというものである。 たとえば、沖縄の小林流の開祖は知花朝信であるが、知花先生は何種類の型を教えていたのであろうか。小林流の道場の中には、50種類近い型を教える所もある。 実は小林流のある先生によると、知花先生が教えた型は以下の通りだったそうである。 ・ナイハンチ(初段~三段) ・ピンアン(初段~五段) ・チントー ・パッサイ(大、小) ・クーサンク

          名嘉真朝増の影響力

          舞方:空手と舞踊の融合

          本部御殿手では、以前より空手(剛拳)と琉球舞踊の関係を強調してきた。それは、琉球王国では空手も琉球舞踊も職業専門家によって担われていたわけではなく、士族によって――しかもしばしば同一人物が――二つとも担っていたからである。 いや、二者の「関係」どころか、二者が「融合」したジャンルがかつて存在した。それが舞方(メーカタ)である。音曲に合わせながら即興的に武術的な舞を披露するのが舞方である。 中国では、武術も舞踊もその評価が低く、清代には社会の最下層の人間がするものとみなされ

          舞方:空手と舞踊の融合

          型の解釈と改変

          学生の頃、大学の図書館で『ニューヨーク・タイムズ』の音楽評論を長く担当していた名物評論家、ハロルド・ショーンバーグの『偉大なピアニストたち』という本を借りて読んだことがある。 もう細部はうろ覚えだが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンといった、著名な作曲家――彼等は同時に当時の一流のピアニストだった――から、20世紀のホロヴィッツといった巨匠まで、名ピアニストの生涯や逸話が興味深く紹介されていた。 もうその翻訳本は絶版になって、いまは下記にあるように『ピアノ音

          型の解釈と改変

          宮城長順の新しい写真

          新しいと言っても、実は以前Facebookで紹介したことがあるので、そのときの投稿をご覧になったかたはすでにご存知だと思う。本部御殿の門中の松島弘明氏(元琉球新報記者)が出された本の中に、宮城長順先生のこれまで知られていなかった写真が含まれていた。 弘明氏の父、松島安男氏は戦前の那覇商業高校の出身だが、そこで空手を教えていたのが宮城先生だった。それで上記の集合写真に宮城先生が写っているという次第である。 松島家は、本部御殿5世、本部按司朝救の次男、松島親方朝常を系祖とする

          宮城長順の新しい写真

          知花朝章と知花公相君

          以前、筆者は「知花公相君」という記事を書いた。知花公相君は知花朝章(1847-1927)から遠山寛賢(1888-1966)へ伝えられた型である。空手界では、従来、知花朝章についてほとんど知られていなかった。また、知花朝章と知花朝信を誤解している例も散見される。それゆえ、この記事では、知花朝章について書いてみたい。 『沖縄県人事録』(1916)に、知花朝章の経歴を紹介した項目がある。それによると、知花朝章は1847年5月27日、首里当蔵町に生まれた。妻は摩文仁御殿の摩文仁朝位

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          知花朝章と知花公相君

          本部朝茂のピンアン

          最近紹介している本部朝勇の次男、本部朝茂(1890-1945)の型にはピンアンもある。しかし、このピンアンも前回のナイハンチ同様ユニークなのである。まずこのピンアンには、初段や二段といった名称が付いていない。ただの「ピンアン」という名称なのである。 とはいえ、ピンアンシリーズと全く異なる型ではなく、実質的に今日のピンアン初段とほぼ同じである。「ほぼ」というのは、実はこのピンアンは、ピンアン初段よりも後半部分が複雑で、さらに長い動作が続くからである。以下に、その部分を動画で紹

          本部朝茂のピンアン

          ナイハンチの原型?

          先日紹介した本部朝茂(朝勇次男)は、トマイクン以外の型もいくつか残している。朝茂氏は、戦前大阪から和歌山へ、さらに南洋へ移住して終戦間際にふたたび大阪に戻ってきて、そこで空襲に遭い亡くなった。南洋時代に、先日紹介した内間安勇氏の伯父、内間安壱氏が朝茂氏に師事して、それで朝茂氏の型が伝わっているのである。 それらの型のなかにはナイハンチもあるが、これが大変ユニークで空手史的には非常に興味深いのである。以下にその一部を動画で紹介する。 動画にあるように、「カニの横歩き」のとき

          ナイハンチの原型?

          御後絵に描かれた国王衣装の考察

          前回の記事で琉球国王の肖像画「御後絵」に描かれた国王の衣装は明代と清代では異なると紹介した。そして見つかった御後絵のうち、尚敬王と尚育王の衣装は清代の様式、不明の2名は明代の様式だと述べた。 なぜこうした「分化」が生じたのかというと、異民族王朝である清は明以前の伝統的な中国衣装「漢服」を廃止して、満州族の衣装を採用し、琉球など朝貢国にはその服制を強制しなかったので、琉球では独自に国王の冠や服を作るようになったのである。 それで、琉球の国王衣装は清代になっても基本的に明代の

          御後絵に描かれた国王衣装の考察

          見つかった琉球国王の肖像画「御後絵」とその所有権

          御後絵(おごえ、沖:ウグイ)は琉球国王の肖像画のことである。第二尚氏王統の歴代国王の御後絵は、首里城そばの王家菩提寺・円覚寺(臨済宗)に安置されていた。しかし、明治年間に旧王家・尚侯爵家の沖縄本邸である中城御殿(ナカグスクウドゥン)に移された。19名の歴代国王のうち、短期間で事実上廃位された第2代尚宣威王と最後の尚泰王を除く17名の御後絵があったようである。 大正14年(1925)、中城御殿を訪れて御後絵を調査した鎌倉芳太郎(1898 - 1989)はそのうち10点を撮影し

          見つかった琉球国王の肖像画「御後絵」とその所有権

          幻の型「トマイクン」

          本部朝茂(1890-1945)は、本部朝勇の次男である。あだ名はトラジューと言った。虎の尾のように俊敏で強かったことから付いた。この人も大正時代に大阪にやってきて、一時期本部朝基と行動を共にしていた。本部朝基が大阪で道場を開いた際は、師範代のような役目もしていたらしい。 のちに和歌山に移住し、上地完文先生とも交流している。ちょうどその頃、上原清吉が本部御殿手を継承してもらうために、朝勇先生から和歌山へ派遣されて、朝茂先生に半年間にわたって御殿手を伝授している。 本来は長男

          幻の型「トマイクン」