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丸川謙二

丸川謙二まるかわけんじ(1918-2007)は本部朝基の弟子である。東京大道館で10年間師事した。これまで丸川氏から聞いた逸話を何度か紹介してきたが、この記事では改めて丸川氏について紹介したいと思う。

右から丸川謙二、小西康裕、本部朝正、本部直樹、本部朝行。東京、昭和51(1976)年。

昭和51(1976)年、宗家(本部朝正もとぶちょうせい)は家族とともに東京の小西康裕宅を訪問した。小西先生は戦前本部朝基に師事して、宗家も父・朝基からその名前を聞いていたので、一度訪問して父の逸話をうかがおうと考えた。

このとき、小西先生から「わたしよりももっと本部朝基先生に長く師事して、詳しい人がいる」と言われて紹介されたのが丸川氏であった。それまで宗家は丸川氏のことは知らなかった。

丸川氏は戦後道場は開かず弟子も取らなかったが、名刺には「本部流拳法師範」という肩書きが書かれていた。

意外に思われるかもしれないが、戦後、本部朝基の直弟子で本部流を名乗っていたのは宗家と丸川氏だけである。本部朝基の没後、様々な誹謗中傷がなされていたせいか、直弟子でも本部流を名乗りたがる人は他にいなかった。

丸川氏は最初宗家を見たとき、その姿が本部朝基によく似ていたので、「さすが息子さんだ。師匠にそっくりだ」と驚いていた。また、後日宗家が丸川氏の前で型や組手を披露したときも、「あなたの動きは師匠を彷彿とさせる。師匠の面影がある。よく受け継いでいる」と褒めてくださった。

そして、丸川氏は本部朝基が生前、「朝正はまだ唐手をはじめて間もないのに、突きなどもしっかりしている。あの子は将来ものになる」と褒めていたエピソードを語ってくださった。

丸川氏は間違いなく本部朝基の高弟の一人であったが、人柄は謙虚であった。「私は師匠に10年間師事したが、本当に秘伝らしい技を教えてもらったのは最後の1年だけで、最初の9年はほったらかしでした」と、あっけらかんと話されたこともある。《俺が俺が》というタイプではなかった。

写真:丸川謙二

丸川氏は「本部朝基教」とでも言うべき人で、本部朝基の熱烈な崇拝者であった。「師匠は不世出の人だ。あんな人は二度と世に現れない」と、よく口癖のように話されていた。

丸川氏と宗家が教わった技法はだいたい同じであったが、宗家がナイハンチ初段以外に二段も教わったのに対して、丸川氏はセイサンを本部朝基から教わっていた。本部朝基は基本的にはナイハンチ初段しか教えなかったが、一部の高弟にはもう一つ別の型を教えていた。このセイサンは宗家が丸川氏より習って、現在も受け継がれている。また、丸川氏は掛け手(古流の自由組手)にも詳しかった。

掛け手。演武:丸川謙二と本部朝正

上の写真は、宗家と丸川氏が掛け手をしている映像からのものである。本部朝基自身の掛け手の映像は残されていないので、この映像はその直弟子二人が掛け手を演じている貴重なものである。

実は本部朝基は組手の際に、独特の身体の使い方があった。写真や本の記述ではわからないが、この映像ではそれが実演されていた。

出典:
「丸川謙二」(アメブロ、2016年12月11日)。note移行に際して改稿。

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