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空手家最古の肖像画

琉球王国時代の空手家の肖像画というものは少ない。少ないというかほとんどない。唐手佐久川や真壁チャーングヮーはどういう顔をしていたのであろうか。

そもそも琉球王国時代に描かれた肖像画というのは先日発見された国王の「御後絵」のような例を除くと、ほとんどないように思う。著名な政治家を思い浮かべても、蔡温はあるが羽地朝秀はない。「沖縄三十六歌仙」でも、いま思い起こしても一人も肖像画は残されていないように思う。本部御殿五世の本部按司朝救もその一人だが。

それゆえ、空手(当時はティー、ティージクン等)の達人の肖像画がなくても不思議ではないのだが、実は一人だけ肖像画が残されている武人がいるのである。それは盛島親方もりしまうぇーかたである。

盛島親方

盛島親方は、正式には向廷楷しょうていかい、宜野湾親方朝昆ちょうこんといった。もともと脇地頭(一村の領主)時代は盛島の家名であったが、出世して宜野湾間切(現・宜野湾市)の総地頭になってからは、宜野湾を家名とした。それ以降、一般には宜野湾殿内ぎのわんどぅんち(じのーんどぅんち)の敬称で呼ばれた。琉球士族の家名は領地に由来するので、領地が変わると家名も変わるのである。息子には有名な宜湾朝保がいる。父子ともに三司官に就任して政治家としても活躍した。

本部朝基は盛島親方について、以下のように記している。

宜湾殿内は、有名な宜湾朝保の父君で、体躯巨大、身の丈六尺三寸余、体量実に230有余斤で、怪力の持ち主として当時の人に称(うた)われ、七寸廻りの長さ7尺余の棒でツバメを打ち落とす術に長じていた。

『私の唐手術』83頁

文中で、宜野湾(ぎのわん)が宜湾(ぎわん)になっているのは、息子の宜湾朝保の代に、尚泰王の次男、尚寅しょういんが宜野湾間切を賜って宜野湾王子を称したので、王子名と被るのを避けて宜野湾から「野」の一字を省いて宜湾と改名したからである。琉球王国時代、王子の家名と被る場合、家臣は改名する慣わしがあった。

上の肖像画は伊波普猷の戦前の本に掲載されたものであるが、空手家の肖像画としては最古のものであろう。おそらく宜湾家の後裔が戦前保管していたものを伊波が借りて掲載したものだと思うが、戦後この肖像画が公開されたという話は聞かないので、戦争で失われたと思われる。もしいまでも残っていたら貴重なものであることは言うまでもない。

出典:
「空手家最古の肖像画」(アメブロ、2019年1月9日)。note移行に際して加筆。

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