2つの屋部のクーサンクー
以前、アメブロのほうでブラジルに移民した屋比久孟徳の型を紹介したことがある。屋比久先生は沖縄県師範学校で糸洲安恒と屋部憲通に師事した空手家であった。
当時師範学校では空手は体操の授業の中で教えられていたが、教授の主体は体操教師である屋部先生が行い、糸洲先生はそれを見守りながらときどき指導する形で行われた。それゆえ、師範学校出身の空手家は糸洲先生よりも屋部先生の影響が色濃いのである。
屋比久先生は遠山寛賢より1学年上だったそうで、おそらく師範学校での空手の一期生ではなかったかと思う。その型は数年前にYouTubeにアップロードされたが、クーサンクー(大)もやはり今日よく見る糸洲のクーサンクーとは異なっていた。
上の動画にあるように、立ち方がまずナイハンチ立ちである。今日、糸洲のクーサンクーでは、猫足立ちで行われるのでまずこの点が異なっている。また手刀受けを3回繰り返したあとの貫手が、縦貫手ではなく、手のひらを下に向けた普通の貫手である。
「ナイハンチ立ち」というのはおそらく近代の造語であろう。本部朝基は「八文字立ち」と呼んでいる。つま先が外側に向く「八字立ち」のことではなく、両腿が八の字になるので八文字立ちと呼んでいるのである。
ナイハンチ立ちは糸洲安恒がサンチン立ちのように膝を内側に締める立ち方に改めたので、本部朝基の立ち方は古流のそれである。この点については、以前、「ナイハンチの変遷」の記事で述べたので繰り返さない。
本部朝基によると、空手の基本姿勢はこの古流のナイハンチ立ち(八文字立ち)であったという。
筆者はこれは組手の基本姿勢のことを言っているのかと以前考えていた。『本部朝基語録』に「ナイハンチの型を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立ち」であると、あるからである。
しかし、屋比久孟徳が伝える屋部のクーサンクーその他を見ると、古流型の大半は実はナイハンチ立ちであったのを、糸洲先生が猫足立ちや前屈立ちに改変してそれらの割合を増やしたと考えるようになった。
また、上の動画では、クーサンクーの最後の二段蹴りのあとの裏打ちが、下段の拳槌打ちになっている。この箇所は屋部のクーサンクーの特徴であるというのは、東大空手部の釜田喜三郎も証言している。このように屋部先生の型は随所で糸洲先生のそれと相違があるのである。
おそらく、屋部先生の型は糸洲先生が改変する以前の、古流型の特徴を色濃く残しているのであろう。したがって、屋部の型を研究することで、古流型の解明や糸洲先生の改変箇所を明らかにすることができるかもしれない。
ところで、上記のクーサンクーとは別の、もう一つの屋部のクーサンクーがあったというのをご存知であろうか。
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