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知花朝章と知花公相君

以前、筆者は「知花公相君」という記事を書いた。知花公相君は知花朝章(1847-1927)から遠山寛賢(1888-1966)へ伝えられた型である。空手界では、従来、知花朝章についてほとんど知られていなかった。また、知花朝章と知花朝信を誤解している例も散見される。それゆえ、この記事では、知花朝章について書いてみたい。

『沖縄県人事録』(1916)に、知花朝章の経歴を紹介した項目がある。それによると、知花朝章は1847年5月27日、首里当蔵町に生まれた。妻は摩文仁御殿の摩文仁朝位の姉・カマドである。1866年、書院の小姓に任命される。1868年6月、下庫理当(首里城の儀式を担当する職)に転任し、1873年6月、砂糖奉行に任じられた。1875年、知花は系図座の中取に就任した。1875年8月より勉学のため上京し、1877年に帰郷した。1877年5月より御内用係、そして12月より田地奉行を兼務した。1879年2月、吟味役となったが廃藩とともに辞した。廃藩以降は、尚家家扶や民間会社の役職を歴任した。1908年4月、首里区長に選ばれた。

知花朝章

このように経歴を見てみると、知花朝章は主に政治や実業の分野で活躍した人物であり、空手の活動は述べられていない。しかし、もともと空手は士族が本来の公務を行いながら稽古したものだから、別段不思議ではない。また、彼は琉球舞踊にも秀でていた。

知花朝章は知花殿内の当主であった。知花公相君はこの知花殿内に秘伝として代々伝わった型である。以下に、知花殿内の家系図を載せておく。知花殿内は勝連御殿の分家で、本部御と同じ尚質王の後裔である。


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