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ピンアンと猫足立ち

宗家(本部朝正もとぶちょうせい)は父・朝基ちょうきに13歳頃から大阪で空手を習い始めたが、父が東京に行っている間は近所の青少年たちと一緒に空手の稽古をしていた。当時、本部朝基は一時帰郷していた沖縄から本土に戻ってきて、大阪と東京を約半年ごとに行ったり来たりしていた。

大阪の自宅の近所には沖縄出身の人たちも多く住んでいた。彼らの中には御殿うどぅん殿内とぅんちといった士族出身の人たちもいて、「士族のたしなみ」として王朝時代の空手や琉球舞踊といった諸芸を身につけている人もいた。そして、彼らの子供たちも近所の空き地に集まって一緒に空手を稽古したりしていた。

宗家も同年配や2、3歳年上の人たちと一緒にそうした空き地で空手を稽古して、誰とはなしにピンアンの型を教わった。それで、本部朝基が東京から帰ってきたとき、「お父さん、ピンアンの型を覚えました。見てください」と言って、父の前でピンアンを披露した。

子供心に、宗家は新しい型を覚えて父が喜んでくれるだろうと漠然と思っていたのだが、その演武を見た途端、本部朝基の機嫌がみるみる悪くなった。そして、厳しい口調で次のように言った。

「本部の武に腰を引く武はない。武は腰を引いてはいけない!」

ピンアンの中には周知のように猫足立ちが多用されている。本部朝基は息子が本部拳法の術理じゅつりも分からずに、ただかたちだけピンアンを覚えて猫足立ちを使っていたのを見て、不快に感じたのである。「本部朝基語録」に以下の言葉がある。

自分の唐手には、猫足、前屈、後屈などという立ち方はない、いわゆる猫足などというものは武術の上で最も嫌う浮き足の一種で、体当たりを食えばいっぺんに吹っ飛んでしまう。前屈、後屈などというのも不自然な立ち方で、自由な脚の働き、動きを妨げる。自分の唐手の立ち方は、形の時も、組手の時も、ナイファンチのように軽く膝を落とした立ち方で、自由に運足し、攻防に際しては膝を締め腰を落とすが、前にも後ろにも体重をかけず、いつも体重は均等に両足にかける。

「浮き足」というのは空手の猫足立ちと同じようにかかとを浮かす立ち方である。宮本武蔵の『五輪書』に以下の言葉がある。

足のはこびやうの事、爪先を少しうけてきびすをつよく踏むべし。足つかいは、ことによりて大小遅速はありとも、常にあゆむがごとし。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三ツ、きらふ足也。

「水の巻」より。

訳文:
足の運び方のことであるが、つま先を少し浮かせてかかとを強く踏みなさい。足使いは場合によっては大小遅速はあるがどんな場合でも、歩くようでなければならない。飛ぶ足、浮き足、踏み据える足、この3つは嫌う足(やってはいけない足)である。


右:浮足

つまり、宮本武蔵は浮き足を3つのやってはいけない足使いの一つに挙げているのである。本部朝基の「武術の上で最も嫌う浮き足の一種」という言葉にはこうした歴史的文脈がある。

知花公相君」の記事でも述べたように、非糸洲系統の古流首里手の型には、猫足立ちはほとんど用いられていない。おそらく本部朝基が親しんだ古流首里手には猫足立ちがほとんどなく、ナイハンチ立ちが主軸だったのであろう。

ところが、糸洲安恒がピンアンを創作して、猫足立ちと前屈立ちを多用した。またクーサンクーなど既存型の立ち方もナイハンチ立ちから猫足立ちへと改変された。糸洲先生の改変の動機は不明だが、学校空手を通じてその影響は大きく、それ以来空手の立ち方が一変してしまった。本部朝基はこうした――空手の近代化に伴う――立ち方の改変の流れに苛立ちを覚えていたのだと思う。

さて、この出来事があって以来、宗家はピンアンを練習するのをやめてしまった。それでいまではピンアンはすっかり忘れてしまった。このとき披露したピンアンは初段か二段だったそうだが、そのいずれだったかも忘れたそうである。

出典:
「ピンアンと猫足立ち」(アメブロ、2016年11月12日)。



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