魔差しカフェ            

私は小学2年の初めから6年の終わりまで日本から見ると最果ての地であるブラジルで過ごした。当時はスマホがまだ普及していなかったのでNHKしか見る番組がなく、日本の伝統的なアニメを休日に現地タイムでみることにノスタルジーと憧れを抱いていた。さて、そういったアニメではほぼ必ずと言っていいほど「空き地」が出てくる。当時のブラジルは治安が悪く、子どもだけの外出ができなかったためプレジオに備え付けのサッカーコートやプールくらいしか外遊びをする場所がなく、いたずらややんちゃをしようものなら管理人や住人から注意や苦情が来るし、秘密基地だって作れないし、戦いごっこはできないし、ロケットだって飛ばせなかったので、この誰の土地でもない「空地」に強い憧れがあった。(だから当時住みたい場所は南極だったが、後々南極はだれのものでもないと同時にすべての人のものであったということを知る)
そこでいよいよ待ちに待った帰国となると日本にはのび太君やカツオが遊んでいた空地はそこになかった。持ち家を貸し出していた間住まわせてもらっていた伯父伯母の家の周りはド田舎だったので使われていない河川敷グランドはあったのだが、そこまで開けっぴろげな感じではないようなもっと土管とか廃品が転がってるような僕の中の典型的な「空き地」はなかったし、あったとしてもそこでは遊べなくなっていた。つまり思い描いていた「空地」はなかった。

思い描いていた「空地」。世界製造機である身体は運動の奥行き感と相まって本領を発揮する。

もし空地があれば、スーパーマリオごっこだってもっと臨場感が出るはずだし、閉鎖したジュラシックパークから突然飛び出してくるラプトルにだってなれる。とにかく「立体的」な「奥行き」のある空間は「心」の奥行構造に働きかけてきて物語に奥行と没入感をもたらしてくれる。賛否両論あるが、ピアノ演奏だって僕は体をねじって視点を移動させるほうが世界ごと動いてるみたいで好きだ。

1.「空地」とストリートピアノの関係

中学のころの友人を見ていて思ったことだが、みんな兎に角間を埋めたがる。もちろん趣味が雲を眺めることだという人もいたが、「暇人」はあまり意味では用いられず、部活と塾と恋愛でスケジュールが埋まっているのが幸せだという奇天烈な民族(僕にはそう見えた)がマジョリティ(数の面では3分の1ほどだったと思うが、彼らはクラスという共同体の方向付けにおいて決定力が高い故に)だった。挙句の果てには入試問題もほとんど空欄を埋めるものばかりだし、生活指導は最高のパフォーマンスを発揮するためには練習で予定を埋めよと連呼するし、入試や試験は教科書の内容を隈なく網羅することで好成績を収めることができるそうでどこを見ても空きや隙を埋めましょう!だった。その通りできればいいです。好奇心はいりません。冒険よりも確実さが重要。イキるな、しゃしゃるな、余計なことをせずにまっとうに生きなさい。これらには甚だ疑問だ。ペースメーカーと動きの軸を洗練させることを僕らは成熟と呼んでおり、それを人格か何かの完成のように言う人もいるがそういった美意識や求道精神をはじめから発揮して何か悟ったような気になるのは凡そ僕の感覚とは相いれない。暮らしのために社会を機能させていく上で、調子に乗って余計なことをして失敗を踏むことはあまり歓迎されないのは自分を取り囲むメカニズムにちょっと思いをはせると察しが付く。しかしやっぱり、すべての物事を「狙ってやる」「意図的にベストを尽くす」という尻すぼみなことが生きることの第一優先事項となってしまうことには耐えられない。だからと言ってのんきにマイペースにまったりと生きていきたいわけではなく、いつも誰からも何からも制限されない無限の可能性を見て忙しなくワクワクしていたいし、やりたいと思ったことは即座に全部実行したい。例え忙しくて死にそうになってもそれが私の充実だ。それを唯一実行できたのが今のところストリートピアノだ。私は楽譜なしでその場で演奏を作る。啓示を受けて、その時、その場でしかない演奏を多いときは4,50人くらいいるその場にいる人達やモノたちと作り上げていくのはまさに世界創造の快感だ。自分の演奏に納得できるかが結局一番大事なのだが、自己完結でなくてその瞬間を共に迎えたいというのが私の願いだ。この理想は人々の「間」に何かを降臨させる「儀式」のようだ。オーディエンスには受け身で聞くだけでなく、対等な関係で「参加」してもらえるようになりたい。私は人々がひれ伏すような特別な技芸を持った魔術師的な演奏家ではなく、何もないありふれた場所から人々が特殊な世界感覚、変性意識へと踏み入れる緒(いとぐち)を作る存在になりたい。これは控えめに言っているのではなく、そちらの方が知覚体験としては激しいし価値あるものだと思うからだ。むろんそのためには周期くるわけだといった技術も必要になってくるわけだが。突然始まるごっこ遊びの道具がリアルかついい具合に不完全であることによって、それを補う想像世界がよりリアルな迫力をもって現前するのだ。ならば、家のリビング程度の間と微量の脳内麻薬の力を借りてオーランドのディズニーワールドを超えるSF体験を作り出すことだってできるはずだ。それを「魔差しカフェ」と名付けてみた。本当に食べ物を出すかはわからない(折り紙を使った本気のおままごとかもしれない)魔が差しました!といって何が始まるかはわからない。そんなリアルとは異なるレイヤーで展開されていく有質量の仮想現実を作り出せるのが空地の持つ可能性と多層世界性ではないだろうか!?  

2.具体的に何がしたいか
では具体的に何がしたいかというと、おもにいくつかのオブジェから即興で世界観や話を作り上げていくということをしようと考えている。突然役が変わるのもあり、でも何とかして話をつなげていかなければならない。私はプロの演出家ではなくパフォーマー見習い程度だがごっこ遊びの経験を生かし、役になりきれるようにリラックスできるようなワークショップも考えている。

まあ取りあえず、いろいろな人が来ると思うので回転を生み出すための最低限の前提を示しておく。とにかく外枠やはっきりとした目的のないことなので「結局何がしたいか」とかではなくて「とりあえずこうする」ということだけ言っておきます。(アイディアがあればぜひ言っていただけると嬉しいです)

・何かの役になっている人に対して、それが何かわからなくても取りあえずかかわって話を展開していく。無理に辻褄を合わせようとしない。
・倫理的に問題のあることや下品なことを誰かが言ったら、それに対してキレてもいい。怒ることも物語のうち。安心してください。私がピアノ伴奏を付けますから。ほかの人はそのシーンに触発されたダンスをしてもいいですよ。(吉本新喜劇やドリフがわかりやすいですね)
・既存の芸人やアーティストのネタを使うのもありです。ただし、あなたの身体から出たそのネタを期待します。コピーではだめなの?いいえ。コピーがらしさを引き出すというのはあまりに有名な話です。

一応書き出すとこんなところでしょうか?質問や要望などあればお待ちしています。野次でも批判でも大歓迎です。かえって興奮しますので。
       

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?