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泥沼に咲く(のきしたjournalvol3寄稿文)

 深夜 0 時。軽自動車を運転しながら帰宅する30分間。右手に ハンドル、左ひじをひじ掛けに置いて掌で顔を支えている。斜め に下がった顔から車道は半分しか見えていない。車はよろよろと 中央分離帯をはみ出る。  

 「社会」が求めてくる人間になることが嫌で、自分の生きる場所 を探して歩いていたら、苦しんでいる人達と出会うことが日常に なった。助けたいのではない。仲間として生きたい。そう思って きた。しかしそれは容易な道ではない。人々が受けてきた傷の深 さに、その壁に、私自身も無傷ではいられない。ふと自身の命を 投げ出したくなる。こういう生活はもう辞めようと何度も思い、 それでも辞められない。それは正義感やら使命感やらとも違う。 私の内面で日々起こっている事はむしろそれとは程遠い。自分だっ て耐えてきたのだからと苦労を強いたり、これだけやったのだか らと対価を求めたり、浅ましい計算があったりする。否定してき た社会の理論を自分こそが身体化している矛盾。その混濁した「身 体」を持つ自分をもみくちゃにしながら、泥沼をおろおろと歩く 私は、しかしその苦しみの中にしか、私にとっての希望がないこ とを知っている。  

 やどかりハウスは3年目を迎えようとしている。宿泊数は 1400 泊を超え 200 名以上の人達と関わりが生まれた。その多く は「家庭」や「個人」の中に苦しみを抱え込んできた人達だった。 それらは社会構造によってもたらされた苦しみであるにも関わら ず「私的領域」という名目の中に巧妙に隠され、切り捨てられ、人々 は孤立を余儀なくされていた。私たちはそのような苦しみに触れ る中で、いつしかどんな内容であれ泊まりたい人であれば誰でも 受け入れるようになっていった。それは善意からではない。むし ろ怒りに依拠している。暴走する資本主義社会の中で、公共性や 合理性、社会性などという言葉によって切り捨てられてきた人々 の「生」が、その無残な排除の歴史が、私たちの目前に毎日のよ うに立ち現れている。制度や法律が人々の為にあるのではなく、 それがあることによる弱者の排除はもはや日常である。  
 
 私たちはこれから何ができるのか今の時点で知っているわけで はない。政治に働きかけるのか、コミュニティを広げるのか、暴 動を起こすのか。いつも先のことは分からない。今はただこの場 所に辿り着く人達と日々悩み苦しみ悶えながらも、その暗闇の中 にこそ私たちの「生」を掴み直したいと思っている。光は外にあ るのではない。私たちの中にこそある。繋がりを奪われ、言葉を 奪われ、自由を奪われた人々との「連帯」こそが、私たちの目的 であり、闘いである。そしてそれはとりもなおさず、私自身の生 き直しであり、残された希望でもある。

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