しあわせの写真
先日 私が主催する展示 TOKYO PORTRAIT AWARD 2022 と併設で個展 “明日を夢見て” を開催した
最近の個展で展示した額装が残っているので 半分回顧展のような開催は容易に思えたのだ
しかしそれは間違っていた
自分の代表作を並べて自分の脳内の写真への誠実な思いを表現したかった
それは成功したように見えたが失敗したようにも思えた
TOKYO PORTRAIT AWARD自体が日本のインディペンデント系ポートレートの歴史を紡ぐことであったから自分のポートレートの歴史を展示することは必然に思えた
誰かが言った
”写真展は数日後になくなってしまうからその儚さに惹かれる”
今は存在しない写真展、、、それが自分の回顧展のように歴史をまとめたものだったり、それがなくなった喪失感はものすごい
自分の歴史を見つめる作業はかなりのストレスだった
産む苦しみ、通過儀礼だったのだろうか
アーティストは自分を壊しながら前進して行くもの、、、分かってはいる
2日たち、自分の中に新しい作品が生まれた
やはり作品は発表するほど生まれるものなのか
展示作品は 私の“しあわせの写真”とも言える
プロとして、目の前に広がる景色への挑戦だった
その時のフォルダーを見返す
フォトグラファー コバヤシモトユキではなく、人間としての 小林幹幸は何をみていたのか
ボツになった写真との違いは何なのか
次の写真のテーマが見えてきた
誰のそばにもある瞬間
しあわせの写真 なんだよね
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