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オードリーヘプバーンに学ぶ、夢の諦め方 #私の好きなオードリー

オードリーヘプバーンのことがなんとなく苦手だった。

「永遠の妖精」と言われるにふさわしい清潔なルックスに、くるくると変わるチャーミングな表情。
飾らず等身大の姿で誰からも好かれる、まさに「こうなりたい!」の理想型だ。クラスにいたら、きっと最初の自己紹介から全員の好感度をかっさらっていくタイプに違いない。

そしてルックスはさることながら、極め付けがその半生である。女優としてあれだけ成功していながらも映画業界にあっさりサヨナラし、今度は親善大使としてユニセフの活動に身を捧げるのだ。

「何かのあてつけか?」というくらい、非の打ち所のない優等生っぷりである。
つけ入る影というものが全くなくて、見ている自分のちっぽけさをまざまざと突きつけてくる。

…そうだこれはひとえに、輝かしい優等生に対する、ひねくれ者のヒガミだ。

よく知りもしないくせに、過去の私はこんな感じに聞きかじった知識でオードリーを食わず嫌いしていた。
ごめんなさい、オードリーファンの方々怒らないでください。というのもこれは、少女漫画でよく見るアレと同じなんです。そう、つまり最初の印象が最悪な人ほどひょんなきっかけでどんどん好きになってしまう、例のアレと。

そのひょんなきっかけというものが、その時気になってた人からの一言だった。(…あまりのひねりのなさに自分でも情けなくなってくる)

年齢を尋ねられた時に生まれ年を答えると、「君はオードリーが死んだ年に生まれたんだね」と返されたのだ。

その言葉で、世紀の大女優と自分とのささやか過ぎる共通点を貰った私は、安直にも「オードリーのことをもっと知りたい…」と思ってしまったのである。

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それから映画や本で彼女の生い立ちや人となりを少しずつ知っていき、かなり驚いた。
ピカピカの優等生だと思っていた大女優の、まあなんと抜け目なくあっけらんとした不良であることか。

語弊があるかもしれないが、社会の無言の圧力に抗って自分の心の声に従う存在を「不良」と定義するならば、オードリーヘプバーンは間違いなく、筋金入りの不良だった。


「できないことはできない」と割り切る強さ

オードリーと仲の良かった女優の言うことには、オードリーはしょっちゅう「自分の顔は偽物だ」と言い張っていたらしい。
友人がそれを信じないでいると、ある日部屋にオードリーが現れてスカーフとサングラスを外し、ノーメイクの素顔を見せてこう笑った。

「見て!目はないし顔は四角(スクエア)でしょ!」と。

「世界一美しい」と評されるあの瞳は、オードリー曰く「世界一上手なメイクさんのおかげ」なのだという。誰もが羨むアイコニックなフェイスは彼女の知恵と、そして彼女を支えるメイクチームの努力の結晶であるのだと。

彼女の素晴らしいファッションにしたって、演技力がないという弱点をカバーするための術だった。
実は正式に演技を学んだことがなく、それをコンプレックスに感じていたオードリーは、自らを別人に変えてくれる衣装を「お守り」と称えて、それらを作るデザイナーを心底頼りにしていたという。(ジヴァンシーとの美しい友情関係はもはや伝説だ)

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オードリーのこの、自身の弱点をスパッと割り切り、他人の力を借りることを躊躇わない器用さに、私はとても惹かれる。

コンプレックスを冷静に捉えた上でそれを悲観せず、どうカバーするかを前向きに考えること。
言葉にすればありきたりだけれど、実際にやってのけるにはものすごくエネルギーがいることだろう。
実力が伴っていない中で衆目の場にひっぱり上げられた時に一体どれだけのストレスがかかるか、一般人の私でも想像がつく。
(同じようにコンプレックスの塊で、借金をしてまで演劇学校に通ったマリリンモンローの悲しい最期は、誰もが知っていることだろう)

ではなぜそのような姿勢を、オードリーは貫くことができたのだろうか?
これはあくまで想像だけれど、彼女の恵まれたとはいえない生い立ちが関係しているのではないかと、私は勝手に考える。

だってそもそもオードリーは、色々なことを諦めた末に女優になったのだ。

夢を諦めることでわかる、本当に大事なこと

オードリーの本当の夢は女優ではなく、プロのバレリーナだった。
子供の頃から訓練を重ね実力も申し分なかったというが、高過ぎる身長と、戦争による練習の中断や栄養失調が影響し、その夢はあっけなく閉ざされた。

当時のオードリーは20歳そこそこ。夢が叶わないと分かっても食うために働いていかねばならず、そこで始めた舞台の仕事の1つが、映画女優への道にたまたま繋がっただけだった。

豊かなアメリカを思わせるオードリーからは想像がつかないかもしれないが、実は「アンネの日記」の作者アンネ・フランクと同い年だ。
同じ時代に同じ戦地を生き、戦争に思春期を奪われた少女たちだ。

父親に捨てられ、戦争で夢は引き裂かれ、この世には自分の努力でどうこうできないものが確かにあるということを、彼女はあの透き通った瞳で現実を冷静に眺め、学び取ったのだろう。

これを思うと、オードリーの女優としての姿勢は、不公平な世の中をサバイブするための生存戦略のようにも感じられてくる。

偶然与えられたチャンスの中で、どうベストを尽くすか。
そのためにできないことはできないと素直に伝え、潔く自分以外の人の力を借りる。

自分ひとりの力で叶えられることなんてたかが知れているという現実を、彼女は嫌というほど分かっていたから。

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メイクや衣装を頼り、そしてそれを隠しもしなかった彼女は、ともすれば女優としてのプライドがないように映るかもしれない。
しかしプライドがないような振る舞いというものは、「本当に自分にとって大事なものが何か分かっている人」にこそできることだと私は思う。

オードリーにとって最も大事なものは、間違いなく家庭だった。
子供の頃に引き裂かれた家庭を、今度は自分の手で育み守ること。そして自分と同じような境遇の子供を少しでも減らせるよう手を尽くすこと。

だから彼女は来るべきタイミングで、あっさり映画業界から離れられた。

退いてからも家に届けられる出演依頼の山を無視し続けたオードリーは、その業界の人からしたらとんだ不良であったことだろう。
一本筋が通ったその生き様は、私にとっては痺れるくらいに格好良い。

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夢が叶わなくても弱点をさらけ出しても、自分にとって大事なものが何かさえ見失わなければ、その姿は決して惨めではないということを、オードリーは証明してくれた。
夢破れ、傷ついた者だからこそ持てる美しさと強さが、オードリーには確かにある。
(だってもし彼女の夢が叶ってバレリーナになっていたとしたら、これほどまでに愛され続ける存在にはなっていなかったのでは?とつい思ってしまう)

とりあえず「できる」と言ってみることが良しとされる現代で、そしてその圧力に気付けば消耗してしまっている日々の中で、「できないものはできない」とあっけらかんと笑う彼女の姿は、私たちの心をすっと軽くしてくれる。

上手くいかなかったら次に行けば良いし、行き詰まったら回りの力を借りたら良い。でもその代わり、自分の大事なものは意地でも守り抜いてねと。

強く聡明な永遠の妖精は、スクリーン越しに「あなたにとって大事なものは何?」と、いたずらな美しい瞳で問いかけてくる。

このnote は「Audrey」の新色発売を記念して執筆致しました。
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