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朝日を浴びる雲を纏う星生山。

 一昨日から、1日1枚の写真を言葉にする。ということに力を入れている。なぜそれを始めたのかというと、年内に写真を展示させてもらえる場所がようやく見つかったから。
 ある日突然全ての写真を言葉にする。ということは、凡人である僕には難しいので、1日1枚と設定している。

 そこで、思考を巡らせる中で気づいたことがある。それは、僕が受け手(見る側)として、美術館や写真展に足を運ぶ際、注目する視点が、その隣にある“言葉“・その人自身の“背景“に在る。ということ。
 写真をはじめ、絵画などの作品そのものは、もちろん見るが、僕が留まっている場所は、テキストの前がほとんどだった。

言葉には役割がある。
その展示のタイトルに始まり、作品一つ一つのタイトル、キャプション、ステートメント。あるいは、エッセイ。それぞれにそれぞれの役割がある。

作品を作った人がどんな意図でそれらの作品を作り、セレクトし、その空間を作ることで、何を受け手に伝えようとしているのか。これを受け手は、作品単体では、理解しづらいように思う。
作者が展示に在廊してあれば、対話をする中で読み取ることもできるけど、必ずしも在廊しているわけでもない。

写真を言葉にする。

ということを実際にやってみて、
どうしても主観に頼りがちで、客観性を持たせることに難しさを感じている。
キャプションやステートメント、エッセイ。それぞれに定義があるけれど、どうやら現時点の僕には、ステートメントとエッセイの中間。くらいの文章が肌に合っているようだ。

これから作品を発表する上で大事にしたいことは、鑑賞者と対話をする。ということ。
会場に足を運んでくれる方との生の対話を通じて、何が面白いと思ったか。あるいは、気に食わなかったか。どういう感情が生まれたのか。何も感じなかった。というようなことを読みとり、それをまた次の作品に落とし込んでいきたい。

以下、写真を言葉にします。

朝日を浴びる雲を纏う星生山。

大分県にあるくじゅう連山を構成する一つ、星生山に登った。朝焼けを見ることが目的だった。この写真は、扇ヶ鼻という場所で朝焼けをひとしきり堪能した後、星生山に向かう途中、朝日を浴びる雲が星生山を着飾っている様に美しさを感じて撮った一枚。流れゆく雲は、決して同じ姿に留まらず、その姿を刻一刻と変容させる。山頂では、陽が昇る。あらゆる人がそこに魅力を感じ、それを眺めている。太陽そのものに視点が向かう人もいれば、陽の光を浴びる何かに注目する人もいる。さまざまな人のさまざまな物の見方・捉え方を受け入れることを僕は大切にしている。

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