見出し画像

51 蛇足・・・未来形

 前回の50回で終了したのにまた51が出てきておかしいと・・・自分でも思いますが、まあ、ご勘弁を。ですが振り返ってみて、初期の目的意識をきちんと説明できていないかもしれないと考えて蛇足になりますがちょっと書いておこうと考えました。


 一昨日、あることがありました。ええ、大したことではありません。メールが1通来たのです。それは市の社会福祉協議会の子供関係を担当されている方からでした。夏休みに中学生の学習支援というのに講師として参加したのですが、講師を集めての連絡会というのを開催するというお知らせです。私は参加を断りましたし、たぶん冬休みにも企画されているであろう次の学習支援への参加も断りました。

 理由はこうです。学習支援は主に(全員ではありません)家庭の事情で塾に通わせたり家族が勉強を見てやれない小中学生に場所と講師を提供するというものですが、私は適任とは言えないだろうと考えたのです。私は一応これまで英語環境で仕事をしていましたのでペラペラではありませんが中学校レベルの英語であれば見てあげられますま。(それ以上は怪しい) 仕事をせずに毎日家にいる私(別に暇ってわけじゃありませんよ) は依頼を受けましたが、一度やってみてこれは続けてはマズいなと考えました。

 これは前にも書いたかもしれませんが、(忘れました) 子供が持ってくる課題は学校で出された宿題で、それを見ますと要は穴埋めになっています。子供はその空欄になっている部分に単語を当てはめようと必死です。正しい単語を入れなければ正解にはなりません。全く、それは当たり前で、大昔の私の中学生時代と同じです。何も変わりません。何も変わらないのはそのやり方ばかりではなくてその内容も似たようなものです。「この文を未来形にしなさい」とある問題があります。子供は ( ) に単語を埋めていきます。一つの空欄には一つの単語なので ( ) が一つの場合ともっと多い場合で書き方が変わります。同じような意味になっても空欄一つの時に be going to を使ってはいけません。同じ問題が穴埋め形式でなくて解答欄に文を書きなさいであれば、子供はどちらを書いても正解になりますから自分にとって簡単な方を書いておきます。

 ああ、あの時と同じことが行われているなと私は感じます。今時の学校は常時であるか定期的であるかはわかりませんが外国人の先生と話す機会が設けられているそうです。教科書も私たちの時代よりは実践的な内容になっています。ですが、学校での成績につけ方は以前とそう違わないのです。未来形と言いましても・・・何を伝えたいかによって「言い方」は違うのですが、成績のためには「未来形」を書くことだけが求められます。その後に来るのはもちろん受験でしょう。こちらも制度は昔と何ら変わっていません。つまり、今の彼らに必要なのは自分の伝えたい言葉を考えるより「減点されない」英語を書くなのです。

 とは言え、私はこの国の社会の中で使われている「制度」がおかしい、そんなやり方ではダメ!などと楯突くつもりはありません。何事も完全では有り得ないですし、皆さんがそれが良いとして採用しているのであればそれを利用しなければ先の選択肢が提示されず、生きるのに困難が生じるのは自明です。仕方ないのです。

 そう考えますと、私に講師としてできることはほぼ無いと言って良いでしょう。むしろ私のような人間が小中学校の学習のプロセスの中に期間限定でポンっと入ってそこにいるのはマイナスになりかねません。お断りしたのはそれが理由です。


 ほどなくして、社協から返信がありました。その返信の中に短い夏休みの学習支援での私の関わったちょっとしたエピソードについて書かれていました。私の担当した中学生のこととその母親からの感謝の言葉についてです。その子の母親は学習支援を要請したのは我が子の英語の成績が悪いのを懸念してのことでした。「うちの子は英語が全くダメで、下の学年の内容から見てもらう必要があるかもしれません」と言っていたそうです。私が実際にその子を担当すると印象は母親のそれとは全く違いました。その子は多くの単語を記憶していてその意味では並以上のレベルでした。記憶力はかなり良いのです。何が成績を悪くしているかというと、記憶した内容が頭の中で体系化されていないのです。ですから正解を当てようと何かをとりあえずでも書いてしまいます。全くわからずに空欄のままということはありません。それを続けている限り持っている知識が体系化することは彼にとって不可能ではないかと私は考えました。

 私はその子の母親に言いました。お子さんは能力的にダメなのではありません。むしろ記憶している知識はとても豊富で、その意味では優秀と言えます。ですが、正解に至るには知識を頭の中で整理する学習方法が必要です。学校でこの子のためだけのやり方はしてくれないのは仕方ありませんが、何か (一時的な学習支援でなく) 合ったやり方を考えてあげれば良いはずです。

私が言ったのはお世辞でも何でもありません。その子は多くの単語を記憶していましたし、美術や科学(化学)実験的なことに興味を持って自分自身でいろいろやっています。ただ英語に限っては単語を覚えて出すところまでで止まってしまっているだけだったのです。つまり彼にとって英語は絵を描くような自分自身を表現するための道具でなかっただけです。その代わりに与えられ、そしてこなす勉強であっただけです。

 私がその子の母に言ったようなことは過去の学習支援では話題に上ったことがなかったそうで、講師の方々の集まった連絡会で取り上げられたとのことでした。それがその後でどのように扱われたかまではわかりませんけれど。


 さて、ここで話を戻さなければなりません。どこまで戻すかというと、わたしがこれまでに書いた50記事のところまでです。かなり回り道してしまいましたが、どうしてもそこまで戻らなければ整合性がとれませんから。それに私が書きたいのは学校教育についてではありません。私たちが何に慣らされてきて、それを当たり前と考えるようになり、結果として何を失ってしまっているかです。

 もうおわかりかと想像しますが、あの中学生は「英語がダメ」と先生に言われ、そのことが親に伝えられて「この子は英語が全くダメ」とラベリングされました。そのままの状況が続けば「この子は高いレベルの高校には入れない」とされたり「勉強ができない子」だったり「他の子たちより劣った子」になってしまう可能性が無いとは言えません。その評価は本人の心にも影響して彼は何かを諦める、諦めさせられるかもしれません。英語の成績の評価が彼の人生を彼の希望と別のところへ引き摺っていってしまいます。

 ですが、私たちにはもうわかっています。人生にとって大切なのがどちらであるかが。わかりますよね? 英語クイズで成績が良いということで得られるアドバンテージは進学でちょっと有利なり、さらにその状態を継続していくことによって少しずつ少しずつ社会的なアドバンテージを得るのでもしかしたら経済的、社会的に良いことかもしれません。ですが、そのやり方は時々に与えられた選択肢の中から正解に近いものを選べるというだけと言えないでしょうか? そしてその選択肢はある時点で提示されなくなります。追われるように夢中で読み続けていた本のページを捲っているとある時何も印刷されていないページが出現するのです。その時期は誰にも必ず訪れます。ぼんやりと座り込む私たちに残される選択肢と言ったらテレビのチャンネルだけになるのです。

 中学生の時に絵を描いていた時には、それは他人から示された選択肢への回答ではありませんでしたがその成果は他の誰のものとも比較できないというだけの理由で評価されません。「英語がダメ」の方が大きな影響力を持つのです。けれども、最終的に人の人生にとって大事なのは、そして最後に残るのはどちらでしょうか?

 人生は子供の時に思うよりずっと短いものです。その間に私たちの前には他人に評価されなければならないケースが山ほど出現し、そして私たちはそれに向かって時間と労力を使います。しかもそれが自然で良いやり方だとすら考えて注力したり、自分以外の何かになろうとさえしてしまいます。ですが、人生というスケールで考えればどれも一瞬の出来事です。ある時点でそうしたものは全部吹き飛んでしまい何も残りません。それに気付いた時にやっと、他人の評価に気を取られて軽んじて捨ててしまった大事なものがあったとわかります。



 少しずつ何日にも渡って書いていたので少し繋がらなかったり同じことを繰り返し書いてしまったかもしれませんが、お許しください。今回は書くつもりはありませんでしたが手紙が来たことによって書き始めてしまいました。今後は何か別のテーマが見つかったら再び書こうと思います。それまではお休みします。質問その他あればいつでもお受けします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?