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20 人生に花は要らない

 前回は、人生の時々に燦然と輝くように見える目標は実際に到達してみると本当に一瞬で終わってしまう光に過ぎない。でも、人生はそこで終わる事なく続くという話をしました。

 さて、今回は・・・ですが、たまたま書こうと考えていたテーマに近い話が書かれた記事が掲載されていましたので最初に紹介させていただきます。皆さんはムッシュかまやつという方をご存知でしょうか? 私もリアルタイムで知っているわけではないのですが、時々名前があがり、姿は見えますがいったい何が本業なのだろうとずっと不思議だった方です。2017年3月1日にその生涯を閉じましたが、大スターになるのを拒否して「ミュージシャン」であり続けたというのがこの記事の内容です。

 「地味でも良いから自分のリスペクトする音楽をやって行きたい。生涯B級ミュージシャンでいたいと思ったわけです」

 つまり、一瞬の輝きを追うのとは逆の生き方という事だと考えられます。一瞬の輝き、言い換えますと「結果」を追うのではなく、好きな事をただずっと「続ける」という生き方です。その何が良いかというと、どうあっても、何があろうと人生に空白が産まれず、死ぬまで人生を楽しめるという事ではないでしょうか。

 では、人生に空白ができてしまう人とムッシュかまやつ氏との違いはどこから来るのでしょう? それは上の本人の言葉の中の秘密が隠されて(いえ、隠してはいないと思われますが) います。それは「自分がリスペクトする」の部分です。自分が、なのです。私がムッシュかまやつ氏を理解できないのもここにポイントがあります。氏は自分自身で基準を持って活動していますから他人には理解できないのです。そして理解してもらおうとさえしていません。

 それに比べて、私やあなたの人生の基準はどこにあるでしょうか? 自分もムッシュと同じ、という方もいらっしゃるでしょう。けれど、普通は人生の基準は他人の定めた何かになっている場合がほとんどです。それは学校で教えられた到達点であり、会社や社会で認められ求められた到達点です。○○になる事や、実績をあげる事、お金を持つ事、ステータスになる所有物を所持する事、そして他人に評価され羨ましいと言われる事かもしれません。

 私の母は時々、私にこう言いました。「そんな事してたらみっともないよ」と。そうです、基準が他人にあるから私をそうして教育していたのです。逆に言えば、近所で「あの子は一流大学に入ったんだってね」「良い会社に入ったんだね」「お給料良いらしいわよ」と噂されたいわけです。そんな感覚に私は追い立てられるように生きなければならないと教育されていたという事になります。ムッシュとは逆ですね。

 時々、親が子に「自分の好きなことをやれば良いよ」と言うようですが、本当に好きな事をしたとして、それが親から見て良い事でないとしたら、生活できないのではと心配になるような活動であったとしたら、それでも認める姿勢を崩さずにいられるでしょうか? 難しいでしょう。だとすれば本質的には私の母と何ら変わらない可能性があります。

 今回は最後に記事のタイトル画をもう一度見てください。ジョウロが種を植えて水をやっています。綺麗な花が咲くのを期待して。植物はどんどん成長しますが一向に花が咲きません。ジョウロは植物に文句を言います。「おまえ、これだけ水やってるのにいつ花を咲かせるんだ!」それに対して植物は答えます。「何言ってるんだ。僕は花なんか咲かせたくない。これが僕なんだ!」というわけです。

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