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25 人生という物と型

 前回、「働かないおじさん」について取り上げましたが、問題は「おじさん」そのものにあるのか周辺環境にあるのかどちらでしょう?、というお話でした。今回もそれに関連したお話です。

 人が何かについて考える時には1)対象物とその2)周辺という二つがある事をほとんどの場合見逃してしまいます。これは「働かないおじさん」とおじさんがいる場所やシステム、会社に相当します。鋳物で言えば物と型の関係です。物に問題がある場合には個別の問題になりますが、社会現象のように見えればそれは型の方の問題である事がほとんどです。(ちょっと難しいでしょうか?) ですから、型の方に問題があっても実際の問題が物に反映されて見えるわけであう。おじさんが攻撃の対象になるのはそうした理由からです。

 ところで、個人の人生について物と型の考え方は適用できるものでしょうか? 答えは「できる」です。何しろ、これは自分自身の事であって他の誰にも邪魔される必要も権利もありません。ですから自分にとっての理想的な型を自分自身の頭の中に描けば良いのです。

 例えば、地中海のとある景勝地で生活したい。そこで一生を終えたいと考えてみます。今現在の生活との間にはとても大きなギャップがあるのですが、調べればそこへ行く航空機や経路はわかります。ネットで検索すればビザの取り方や家の買い方、借り方もわかります。少しずつそれがただの空想でなくて現実に可能な事だと思えてきます。もちろん今持っているお金が足りなかったり、病気になった時に困難がありそうだという事もわかってきます。ですが、完全に不可能とは言えません。

 こうした事を人生の型として考えて、そこに自分の身体をプシュッと射出してしまえば出来上がりです。

 とは言え、物理的にはこんなに簡単な事なのに実際には私たちにはそれができません。何故なら、私たちにとって慣れたやり方は型を考えずに物の方をいじる事だからです。将来の為に技術、スキル、知識、資格を身に付けます。上司や先生に評価される為に短期的で興味の持てない目標に向かって一所懸命やります。他人に変に思われないように、良く思われるように何かします。そうして人生という物にボテボテと必要のない物を毎日のように貼り付けます。最後には理想とはかけ離れた不恰好で重いもうどうにもしようのない、そして自分自身でも動かす事すらできない物体が出来上がってしまいます。

 大きな困難は、私たちは心の中に型を作れない事です。物の方を場当たり的にいじるのはできますが、理想的な型を用意するのには慣れていません。想像したり考えたり夢を描くのは誰にも許された自由であるにも関わらず、できないのです。不思議です。自分はその高い理想を掲げる価値の無い人間だと勝手に思ってしまったりちょっとした困難を過大に評価したり、そもそも出来ない理由を考えたりしてしまいます。そして、人生の大半の時間をやがて時期が来ればお払い箱にされるつまらない仕事の為に使いきってしまおうとさえしています。

 私たちは、いったい何の為の生きて、一度しかない人生を使っているのでしょうか? まあ、あまり無理をしても仕方ありませんが。

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