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縋る

みぞおち辺りからだろうか
柔らかな泥にえぐられるような
そこから下の全てを奈落に引きずり落とされるような感じがしていた

何かにすがりついていたい
何でもいい
誰でもいい
お願いだから誰か!

そう叫んでいるはずなのに
私の口元はこなれた微笑みを浮かべて
同僚の他愛もない惚気話に相槌を打っている

ちょっとお手洗いに行ってくるから
そう言って席を外した

冷たい空気が立ち込める不浄の場所
薄汚れた蛍光灯の色と
劣化した水色に囲まれた薄影の個室が
今の私には丁度良い

あっ
ここ数日のひどい乾燥と
己の怠惰のせいでささくれたところがパンストに引っかかり
わずかに血が滲んでいる

思わず舌で血を拭うが
唾液が滲みて痛い

ため息が溢れたの同時に
ひとつ、涙が零れてしまった

だめだ、ここで踏みとどまらなければ
声を上げて泣いてしまう

早く戻らなければいけないのに
そう思った頃には遅かった

嗚咽が止めどなく込み上げてきて
ぼろぼろと涙が溢れてしまう

誰にも聞こえないような
小さな声で
誰か…。とつぶやく

手のひらの液晶に
先に戻っちゃうよとチャットの通知が来ている

それを無視して画面を開く
私の指先は震えながらもまっすぐ
迷うことなくあの人の番号を押す

もう会わないと心に決めていたのに
電話帳からも消したはずの番号を
この身体は覚えている

鼓膜をコール音が震わせる
2回…3回……
無機質な音の重なりが
背中に付けられた傷跡を疼かせる

深く、また深く
コール音が響く度に痛む
弾けそうないなるぐらいの不安に襲われる

これは正しいことなのか
いや間違っている
もう会ってはいけない
引き返してはならない
けど、✕を与えてもらわなければ
私、もう息もできなくなって…

ずきずきと痛む身体
その奥の深いところで
過ぎ去ったはずの快感が脈を打つ

途切れるコール音
静寂、のちにタバコを吸う男の吐息

おかえり。

その声を聞いたらもう何も抗えない
低く優しく響く、甘美な絶望の声
どうせ私のことなど全てお見通しなのだろう

申し訳…ございませんでした。


また、あの場所で
私は✕を受ける

私という生に対する✕を
安堵と自己嫌悪に塗れながら
快感と苦痛を混同させながら
何度も世界を翻すのだ

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