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グラデーションな世の中で

 最近,なかなか脳内言語が日本語になってくれない。それは,まだ考えがファジーだったり,そもそも考えを持っていないことを聞かれたりしているというのが原因ではある。だけど一方で,「本当にこれを言っていいのか」とか「相手の意図しないことではないか」とかいうことを考えてしまって,言葉を選ぶのに時間がかかってしまうのもまた事実。言葉を選ぶのは嫌いじゃないけれど,時間に追われるこの社会ではそういったことに時間を割くことはあまりい顔をされないのだ。悲しいことに。

 そんな日々を過ごしているところで,ふとSNSに目をやると世の中の出来事にハッキリと自分の意見を書き込んでいる人々がいて,内心すごいな,とも思う。自信にあふれた語調で自分の意見を書き込めるな,と。もちろんリアルタイムの会話と違い,その書き込みの裏には自分がそれを読むのに何倍の時間を使っているのかもしれない。でも,自分が時間を掛けようが自信は増すばかりか不安だけが募っていく。だから,自分SNSの書き込みは面白い本とか,どこかに行ったとかいうユルいものばかりだ。まあ,SNSの使い方なんて人それぞれなんだけれども。

 正直なところ,これも若干びくびくしながら書いていている。まあ,noteの隅っこに置いているこの記事を目にする人はそう多くはないでしょうが。ではなんでそんな思いをしてまで書いているのか?それは世の中にはこんなことを考えている人がいるんだということを伝えたかったり,自分と同じような考え方をしている人がいないか探してみたかったり,あるいはただの自己顕示欲。そんなエネルギーが不安感を超えたとき,自分はキーボードを叩く。

 そんなうっすらとした不安が詰まったユルい頭はいろんなものであふれたグラデーションな世の中をはっきり色分けすることは到底できず,半ばそのグラデーションをひとかけらの諦めとともに漂うことしかできなくて。しかしどうやらそうやってもいられなくなってきて,モラトリアムは終わりを告げたようで。ひとまず,明日は言葉がさくっと出てくることを祈りつつ,どうにもストイックになり切れない頭にメリハリをつけるべく今日はしっかり休もうか。

 そんなことを思いながら,肌寒い秋の夜長をコーヒーをすすりつつ出したばかりの厚手の肌布団にくるまって過ごすのです。

 以上,お納めください。

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