【1991年の前半のこと】フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」と「午前3時のオプ」。

1991年春。自分は引っ越しを控えていた年。隣町の中古CD屋で一枚のアルバムを買う。フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」。それがこのCDとの出会い。記憶を頼りにその周辺の話と、歌詞の話を少ししようかと思います。

1991年の春と言えば、バンドブームはもう本質的には終わっていた時代だった。バンドブームって、ひたすらビートパンクみたいな曲ばかりが流行ってたのかと思えるかもしれないけれど、後期にはむしろ「脱・タテノリ」がメインなテーマだったんじゃないかとも思える。フライングキッズ、たま、ジッタリンジン、クスクス。いわゆる「タテノリじゃないリズム」の探索。

そしてフリッパーズギター。90年の夏ころ、レンタルへ行って他の何枚かのシングル(もちろん短冊!)とともに、アルバムに先行するシングル「恋とマシンガン」をカセットに録音した。その時点では、自分はフリッパーズ・ギターもそういった「脱・タテノリ」のバンドなのだろうと思っていた。脱・タテノリ派のひとつの特徴は、ロックンロール以外のルーツ音楽にリズムを求めるところにあって、フリッパーズはそれをジャズに求めるバンドなのかな、くらいな感じ。アルバムを見ても、曲のタイトルだけ見ると「クールなスパイでぶっとばせ」とか「ビートでゴーゴー」とか「サマービューティ」とか。ああ、あるよね、「脱・タテノリ」で、こういうちょっと斜に構えた感じ、と。いやはや。今思えば、本当にアホな第一印象でございまして、反省しきりです。

そんな感じで、評判にもなっていたし、2100円という中古にしては高い値段で遅れて買ったフリッパーズの2ndアルバム「カメラ・トーク」。とにかくアレンジとリズムがおしゃれで、なによりもボーカルの声が気持ちよくて、何も考えずに聴けるアルバムとして聴いていた。(「何も考えずに聴けるアルバム」? なんて恐ろしいことを、当時の俺よ!) 

でもですね、フリッパーズの歌詞って発音するだけでも気持ち良いんです。「うそをーついたっ、でまかせならべーたっ、やけくそのいんーよおくなんてっ」。なんて気持ちいい! 「っ」と「-」のバランスが良い。「そ・お・さ、きーみとぼーくになつがくーるさ、なーつはびーとでごーごーなのさ」。冒頭の「そうさ」が絶妙だ。「ハイ・ファーイな、いた・ずーらさ、きぃーっとぉー、い・み・なんて・なーいさ」。そうか、小山田君の歌って「っ」と「-」の区別をあまりつけないのが、気持ち良いのかも。

ところが、ある時。その場面、その景色も全部覚えている。カーステレオで「カメラ・トーク」をかけながら引っ越しの準備をしていた時だ。ラストナンバーの一節、「判り合えやしない、ってことだけを判り合うのさ」という一文がすっと耳に飛び込んできて、雷に打たれたような衝撃を味わうことになる。なんだこれは。この真実性、その切り込みの角度。「雪が解けて僕たちは春を知る」のあとに「同じ事ただ繰り返す」って続けるこのクールさ、この美しさ。

そのあとは不思議にどの曲を聴いても、その歌詞がするすると頭に入ってくるようになった。あの時感じた真実性やクールさだけではない。意地悪さ、そして意地悪さと同居する美しさ・純粋さ。それが故の怒りにも似た焦り、焦りにも似た怒り。世界への唾棄。つまりは青春。モラトリアム。その不貞腐れた美しさ。素晴らしい。共感し打たれた。特にアルバム後半の歌詞には、噛んでも噛んでもにじみ出る美しさと残酷さがあった。

「午前3時のオプ」の歌詞

さて。ここからは歌詞についてメモ。フリッパーズ・ギターの歌詞の話をするなんて、恐れ多いこと甚だしい。(どうぞご寛容に 笑。)

それは、「カメラ・トーク」の中核をなす一曲、「午前3時のオプ」の一節。問題にしたいのは、この最後のところ。

掌の傷いつか消える。

僕たちは膝ついて祈る。

誰も聞かない声で叫ぶ。

僕たちは偶然に気づく。

ここの部分、唐突に出てくる「掌の傷」。これは明らかに聖痕のことだと思う。でもなぜここで急に聖痕? 歌詞を見直してみるとキリスト教を思わせる単語・文章はほかにも散見される。「ずっと宗教のように絡まるから」とか「クリスマスイヴの出来事」とか。そして問題にしたいのは「掌の傷いつか消える」という、この傷がついている掌は自分の掌なんじゃないかと思えること。しかも、傷は「いつか消える」と言ってる。それを自分は知っている。

もう一つ、「背中から狙い撃つ。片目にライトだけ眩しい」。誰なんだろう、撃たれたのは。眩しいまでのライトが逆光で差す相手だ。眩しいまでの逆光。ここにも宗教性を感じるのです。

背中から狙い撃たれる「他者」。これは自分のことなのではないか? そして同時にそれは神様なのではないか? 意味が判らない?

「掌の傷」は自分が神さまかもしれないことを示している。ここで狙い撃たれたのは、自分の中の「神さま性」だ。後ろから撃つのは、自分の中とはいえ、神さまだからだ。正面からは殺しには行けない。

ひとつの読み解きの可能性として、青春とモラトリアム、その根拠のない全能感(「Having All Kind Of Cards, I'm just hesitating "Is it ace or king?"」)、それを自分の中の「神様性」として表現し、その終焉を後ろから狙い撃つ、と表現したのかもしれない。その巧みな主観と客観の同居! そして、歌の主人公はある程度の諦めと解放感を持ってそれを受け入れている。そういう風に読み解くことも十分に可能だ。

でももう一つの可能性として、この歌の主人公は、本気で「自分は神様なんじゃないか?」と思っていて、でもそれがものすごく嫌で、嫌で嫌で、自らその「神様っぽさ」を殺しに行く、そういうことを歌ってるのではないか、とも思えた。神様のような客観性・明晰な思考力を持ちながら、あえてそれを行使せず、地面の近くで生活を大事に生きたい。それは、もちろん当時は思わなかったけど、今となっては自分の中にある小沢健二のイメージと違わない。

世界は僕のものなのに! 自分は、ついつい言わなくて良いことを言ってしまう。自分の目は見えすぎて、究極の結論である「死」を告げてしまう。それが嫌で、僕は僕の中の神さまを後ろから狙い撃ちにする。それでも掌に聖痕を残したまま、膝をついて祈る。その聖痕はいつか消える。消えることを知っている。祈っても、その声は誰にも届かない。なぜなら自分の中の神さまは、もう死んでしまうのだから。つまりは神さまが神さまでなくなるとき。誰にも聞こえない/誰も聞いていない声で叫ぶ。この必死さ、真摯さ。そして「偶然」という真実に気づく。つまりはもう人間だからか。

そう、この四行はまるで「神さまが人間になる時」を切り取っているようだ。もう神さまはもう自分のそばにはいない。僕たちが生きるのは、ただの「偶然」だ。でも、神は死に、自分の掌の傷は消えたとしても、僕たちは膝をついて祈る。その声を誰も聞いていないとしても。

逆に言えば、自分の中の神さまを殺してしまって、自分が神様じゃなくなっても、いや、神様じゃなくなったからこそ、祈る声は殺せない。そこには強さと自由意思を見ることができる。見えすぎていないこと。地面に近いところにある「生」。それは、後から思うに、小沢健二のソロデビューアルバムに収録された「天使たちのシーン」の一節、「神さまを信じる強さを僕に!」に通じていると思う。神さまを! じゃなくて、それを信じる強さを! と叫ぶ気持ち。

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ということで、ここまで。前半は個人的な思い出を書き、後半は勇気を奮って割と見かけないかなと思う「午前3時のオプ」の歌詞解釈をやってみました。

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