Q太郎急行

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【1995年のこと】終わりなき日常の終わり:小沢健二の5枚のシングル、ソウルフラワーユニオン「満月の夕」、そしてスチャダラパー「5th wheel 2 the coach」

 思い出を音楽の話と絡めて年ごとに綴っています。できるだけ記憶に基づき、詳細な事実関係の調査はしない方針で書いてます。  95年は「阪神淡路大震災」と「オウム事件」の年。まずそれに触れない訳にはいきません。1月17日朝、会社の寮の食堂で見たときには、行方不明者数名火災も発生しているようです、というニュースだった。自分はそれが示す恐ろしさに気付かなかった。情報が伝わらないほどの惨状。会社で、午前中にある業者さんに電話を掛けた。関西が本社の業者さんだった。「いや本社が倒壊しまして

    • 【1994年のこと】(自分にとっての)小沢健二「LIFE」、エレファント・カシマシ「東京の空」、そして佐野元春ライブ「LAND HO!」

       1994年の事を書こうとしたのだけど、しばらく書けませんでした。  自分にとって1994年は小沢健二「LIFE」の年。「LIFE」の開放的なムードと、就職して仕事を始めて関東に住んだことが、絶妙にシンクロしている。そんな何度も何度も聞いた「LIFE」のことを沢山書こう、と思った。でも書けない。記憶を頼りに書きたいのだけど、聞き込みすぎて当時の記憶が薄れていることもある。 ある時気が付いた。もしかして自分は「「LIFE」が好きじゃなかった」んじゃないか、と。その考えが、すっ

      • 【1993年後半のこと】寒い夏:小沢健二「犬は吠えるがキャラバンは進む」、たま「ろけっと」、そして佐野元春「ザ・サークル」

        1993年の夏は寒かった。いわゆる冷夏。自分が住んでいたのは東北の街、仙台でした。仙台はもともと曇りや雨が続く傾向があって、梅雨が長引く傾向があるのだけど、この夏は特別だった。8月になってもまだ炬燵に布団をかけていたのを覚えている。そして翌年はコメ不足となり、日本はタイ米を輸入する。覚えてますか? タイ米の味。 ということで、翌年に就職を控えた、冴えない理系の学生だった自分は、文字通りの「雨の良く降るこの星」を実感しながら、それでも姿勢だけはなんとか前向きにと、日々に取り組

        • 【1993年前半のこと】初めに尾崎豊のことを少し、ユニコーン「スプリングマン」、ブルーハーツ「DUG OUT」、そして小沢健二「天気読み」。

          昔の話を、当時聞いてた音楽と自分の周辺のことを絡めて書いています。これは1993年の前半の話です。 1993年。この頃の空気をどう説明したら良いだろうか。バブルは既に終わっていた。熱狂は去っていたし、その反省も白々と呟かれていた。でもまだ「世紀末」は始まっていない。今すぐ死ぬような事件・災害があるわけではない。楽しいこともない。このまま何もないかもしれない。 延々と続く、平坦な道。フリッパーズ・ギターが「世界塔よ、永遠に」で歌う「僕は穏やかに死んでゆく。ひどく緩やかに死ん

        【1995年のこと】終わりなき日常の終わり:小沢健二の5枚のシングル、ソウルフラワーユニオン「満月の夕」、そしてスチャダラパー「5th wheel 2 the coach」

        • 【1994年のこと】(自分にとっての)小沢健二「LIFE」、エレファント・カシマシ「東京の空」、そして佐野元春ライブ「LAND HO!」

        • 【1993年後半のこと】寒い夏:小沢健二「犬は吠えるがキャラバンは進む」、たま「ろけっと」、そして佐野元春「ザ・サークル」

        • 【1993年前半のこと】初めに尾崎豊のことを少し、ユニコーン「スプリングマン」、ブルーハーツ「DUG OUT」、そして小沢健二「天気読み」。

          【1992年のこと】米国滞在記。そしてフリッパーズ・ギター「Singles」、REM「Automatic for the people」、佐野元春「Sweet16」。

          1992年の11月、自分は1か月間アメリカに滞在しました。その時のエピソードと当時の聴いてた音楽を絡めて書こうと思います。滞在したのはワシントン州の町。ワシントンDCではなくワシントン州。アメリカの北にある田舎の町です。 行きの飛行機は殆ど夜で、中継のシアトル空港には朝の到着。フラフラと乗り継ぎをこなしなんとか到着、あてがわれた部屋に転がり込み、矢も楯もたまらずにベッドで眠りこんだ。起きたら夜で、時差ぼけ調整大失敗。そんなスタート。 ところで、1992年の11月とはどんな

          【1992年のこと】米国滞在記。そしてフリッパーズ・ギター「Singles」、REM「Automatic for the people」、佐野元春「Sweet16」。

          【1991年後半のこと】「ヘッド博士の世界塔」とフリッパーズ解散。その周辺の記憶

          記憶を頼りに、過去の音楽と自分の生活を書いてみています。 1991年、関東から東北の街に引っ越しをした。でもその引っ越しのあと、ストレスからか体調を崩してしまった。そんなこともあってフリッパーズギターはとても好きだったのに、「ヘッド博士の世界塔」が出たことはしばらく知らなかった。そんな頃のお話です。あまりビビッドな話にはならないかも。ただそんな自分でも「なんで初回盤を買わなかったのか!」と頭をかきむしった記憶はあります 笑。 体調を崩した時のことで思い出すのは、部屋で横に

          【1991年後半のこと】「ヘッド博士の世界塔」とフリッパーズ解散。その周辺の記憶

          【1991年の前半のこと】フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」と「午前3時のオプ」。

          1991年春。自分は引っ越しを控えていた年。隣町の中古CD屋で一枚のアルバムを買う。フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」。それがこのCDとの出会い。記憶を頼りにその周辺の話と、歌詞の話を少ししようかと思います。 1991年の春と言えば、バンドブームはもう本質的には終わっていた時代だった。バンドブームって、ひたすらビートパンクみたいな曲ばかりが流行ってたのかと思えるかもしれないけれど、後期にはむしろ「脱・タテノリ」がメインなテーマだったんじゃないかとも思える。フライングキッ

          【1991年の前半のこと】フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」と「午前3時のオプ」。

          【1990年のこと】バブルの終わりと、3枚のCD

          これは自分にとっての、バブルの終焉の予感のお話。 時は1990年。自分は就職をして一年目。その会社は1年でやめてしまうので1990年はその会社に勤めていた一年だ。だから、そこだけ切り取ったみたいに、その一年のことは思い出せる。思い出される景色や思いが、特別だからだ。 例えば、その年がどんな年だったかというと、たまの「さよなら人類」のシングルとちびまる子ちゃんの「おどるポンポコリン」が出た。ジャンプではジョジョの第三部が連載中。(死神13の話の途中でちょっとコミカルな感じに

          【1990年のこと】バブルの終わりと、3枚のCD