気づかないうちに傲慢になっていた

「22歳なんてもうそんなに可能性はない」「『勝負するに足りる場所』に出会えていることが羨ましい」「妙にいろんなことに手を出して中途半端」をはじめとして、反省しているようで、「本来ならもっと輝かしい未来があった」っていうある種のおごりがある気がするな

友人から言われたこの言葉が、気づけば頭から離れない。「おごり」と言おうか、「傲慢」と言おうか。真っ直ぐに指摘されて、その時はあまりなんとも思わなかったが、10日程度たった今になって、ああ本当にその通りかもしれないと思う。

実の所、大学生活、本当にうまくできなかったという気持ちでいっぱいである。側から見てどうなのかはわからないけれど、正直、自分であればもっと何かわかりやすい成果を出せたはずだという風に思っている。例えば、卓越を取ることだったり、卒論を書いてなんらかの形で認められることだったり、そうでなくても、小説を書いてそこそこ評判になるとか、ビジネスコンテストで結果を出すとか。大学四年生の3月、卒業を控えて、俺にはなんの成果もない。小説は一本も書けず、GPAは表彰にかすりもせず。そういえば、ビブリオバトルでだって結局一度も勝てていないし、2年生の夏に参加した政策コンテストでも予選落ち。ビジネスコンテストにしたところで、二次予選敗退。何か、成果と言えるようなことがあるとすれば、就職活動関係のことでしかない。

そういう外的な成果を別にしたところで、自分自身の中でも達成感はない。すごく満足のいく小説を書くことはおろか、小説を書くことすらできなかった。学業に真剣に打ち込んだぞと言えるほど一生懸命に勉強したこともなかったし、ゼミにしても中途半端な準備で臨んで、中途半端に打ち破られて帰ってくることの繰り返しだった。

別に留年したわけでもなければ、就職活動に失敗したわけでもないのだから、人生の上で大きなマイナスになった大学生活というわけでは全くないのだが、それでも、とにかく高校生時代の自分に申し訳ないという気持ちでいっぱいである。

というのも、高校時代の僕、受験勉強をしていた僕は、なかなか大して努力家だった。そして、「こんなにも頑張れる自分がいるんだ!」ということを発見した僕は嬉しくなって、「俺が、こんなにも頑張れるんだったら、何か受験勉強よりもっと大事なこともこれくらい頑張ってみよう。大学生活になったら、自由な四年間がある。その中で、この受験勉強くらいに頑張る分野が何かあれば、きっと自分は並々ならぬ成果を出せるんじゃないか。」と思い、その約束を、大学生活の自分にしたつもりだったのだ。

受験勉強の努力というのは虚しいし、効率が悪い。なぜならば、それはみんなが同じくらいに頑張ることだからである。他の人が10時間頑張ることを自分が12時間頑張ったって大して差別化にはならない。一方で、大学生にもなって、毎日12時間、何かに打ち込み続けられる人間はそうはいない。だからこそ、自分は、この受験勉強で見つけた「頑張ることのできる自分」を忘れることなく、きっと18歳から22歳の4年間、頑張り続けて、何か何でもいいからやってやろうと思っていたのだ。

それがどうだ。このざまだ、という気持ちになっている。

ただ、無難に単位をとって、要領よく就活を終わらせ、それ以外に何もない自分。といっても結果にどうこういうつもりはない。結果が出なくてもよかった。むしろ、「頑張ることのできなかった自分」を見つめ直すたびに、17歳の俺との約束を永遠に破ってしまったことが思い起こされて辛いのだ。

そして、俺は、この大学生活の失敗の原因を自分の怠惰だと思っていた。

でも、本当は、自分の傲慢にあったのかもしれない。友人の言葉以来、その可能性を考えている。

僕は、高校時代の自分の「成功」に捉われ続けている。それは他人から見たらちっぽけな成功かもしれないけれど、僕にとっては本当に大きな成功だった。中学高校と6年間、自分は何者でもないという劣等感、周りには敵わないという思いを抱えて過ごし続けて、努力することを漫然と避けていた自分が、高校二、三年生になって初めてちゃんと自分に向き合って努力をした。そしたらちゃんと結果がついてきた。僕は自分が捨てたもんじゃないなと思えたし、「ああもっと今まで努力をしてくればよかった」と思った。

僕にとって一つ思い出深い、しかし誰にも話したことがないエピソードをあげるとすれば、それは高校2年生の最後にあるロードレースだった。サッカー部の中で一番体力がなかった僕は、夏の合宿が終わったあと、なぜか猛烈に走り込みをすることを決意し、部活が終わった後も自主的に毎晩走り続け、ロードレースでかなり順位を上位の方まであげることに成功した。それは自分が「やれば努力できる人間なんだ」ということを自分に証明する機会となり、自分にとって大きな自信となった。(しかし思い返せばあそこでも入賞できていないわけで、自分がいかに成果を出すことができていないかという記憶でもあるが)

そして、その後努力をする中で、高校三年生の文化祭、そして受験と自分で思っていたよりもずっと立派なことができた。そのことが僕の自信になった。一方で、自分には、他の人よりもすごい才能があると思うようになってしまったのかもしれない。

大学四年間、ずっとそうやって自分の結果を過信して、努力をすることを避けてきたのだ。それは、「結果が出なくて自分の才能のなさが暴露してしまうのが怖いから、頑張らない」ということのようでいて少し違う。僕は、ただ、「頑張らなくても才能があればいずれ結果が出る」と漫然と思い込んでいたのだ。

努力をするためには謙虚さが必要だ。なぜならば、頑張らないと結果は出ないという風に思い込んでいなきゃ、努力をするモチベーションが続かないからだ。今思えば、(僕が常に参照し続けている成功者としての)17歳の自分は、ずっと自分なんて大したことがないと当たり前のように思っていた。結果としてそれが達成できるかどうかではなく(つまり未来の自分がどうなっているかではなく)、今現在の何もできていない自分を見つめ続けて、とにかくそこから一歩一歩伸ばしていくことを真剣に考えていた。そして、最終的に結果については「どうにかなる」と極めて楽観的に考えていた。ただ、今の自分は何者でもない。俺には才能がない。だから一歩一歩丁寧に積み上げていこう、他の人が二歩進んで立ち止まる場所で、三歩、いや二・一歩でもいい、ちょっとでも多く積み上げていこうと。

僕が好きだった自分は、東京大学に合格した自分でもなければ、ロードレースで上位でフィニッシュできた自分でもない。それは、10時まで自習室で勉強した後、「さすがに他の人は休憩するんだろうな〜」と思いながら家までの帰り道でも風呂でも文字通り眠るその直前まで暗記を続け夢の中で数学を解いていた自分だし、部活のトレーニングをみっちりやって家に帰った後親に流石に今日はやめといたらと言われながら追加で自主ランをしに家から走り出す自分だ。「さすがにここまでは頑張らんだろw」と思いながら頑張れてしまう自分のことが好きだった。

お前のストイックさは周りを死に追いやる

と、17歳の僕に言ってくれたのも、冒頭の言葉を投げかけてくれた友人だった。恥ずかしいが、僕はその言葉を胸に生きている。

正直自分の本性は怠惰だと分かってしまう四年間だったが、一方で「頑張ることができた自分」が確かにいたのもまた事実。自然に頑張れるわけじゃないからこそ、頑張ることを頑張りたい。そのためには、とにかく傲慢さを捨てて、何もできない自分をポジティブに見つめて、健全な謙虚さと、真っ当な自己肯定感を持つこと。一歩一歩、積み上げていきたい。


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