あれから四年経過したね

 さっき、両親から電話があった。特に用事も無いし、この間話したばかりなのに何故、と思ったが、3月11日という節目に僕の状態を確認したかった様子だ。両親と震災について深く話したことも無いし、実家は大きな被害も無かったのだが、やはり色々と思うことはあるんだなと。

 あの日、僕は既にうつ病で、会社を休んだ日。

 自宅で休んでいたら尋常じゃない揺れを感じ、外を見ると電柱が激しく揺れ、近くの堀から水が溢れ、車は止まり、歩いてた人たちはしゃがみ込み、自宅マンションの住民が急いで外に出ようとバタバタしていたことが思い出される。

 僕の実家は宮城県。比較的震度が高い自身が定期的に発生するため、東京でこの規模の地震は珍しいな、ていどに考えていた。テレビを付けるまでは。

 どうやら、震源地は三陸沖らしい。それなのに東京でこの揺れはおかしい。この瞬間戦慄した。テレビやツイッターで情報を収集していると、都内は大混乱、それと並行するように津波の映像がどんどん流れてくる。

 え?これ映画かなんかなの?

と、まったくリアリティが無い。これは現実なの?本当なの?テレビで映ってる場所は僕の母校がある場所じゃない・・・???

 彼女はどうした?都内でセミナー中では?

 石巻で教師している友人は大丈夫なのか?

 両親は?妹は?

あらゆる手段を使って連絡を試みたが、不通。ただ無事を祈ってテレビを眺める時間が歯がゆかった。

 彼女はは徒歩で帰宅。両親からメールで生存確認が来る。友人からは。。。。返信来たのは3日後。

とりあえず、胸をなでおろす。しかし、テレビからは津波、津波、津波、の映像。人々が、犬が、家が、車が一切合切流される。無力と恐怖。

 ツイッターを見てたら、僕と共通の友人の安否を探していた人を発見した。即返信し、僕の身分も証明し、安心してもらった。あれはインターネットの奇跡だろう。

 震災で僕は何を失ったのだろうか。友人知人家族は奇跡的に助かった。しかし、思い出のある場所は消え去った。そこに赴いた時の思い出とのギャップと、ここにいたはずの人たちの思い出。悲しいとか悔しいとかではなく、ただただ無力だったのだな、ということだけだった。

 震災を画面越しで目の当たりにした僕は、現実を見るのが怖かった。そんな期間が長いこと続いた。記憶に残っているあの街が、この景色が、と思うと辛すぎた。だから、準備が出来るまで見ないことにした。

 4年経過した今も辛いけれど、向き合うことはできているように思う。なるべく明るい未来を想像しながらね。

 また来年も同じような思いが去来するのかもしれないが、少しでも明るい未来になっていたら、みんなうれしいんじゃないかな。そうあってほしいな。そうなるように何かしていきたいな。そう思った4年目の14時46分だった。

 

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