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ある意味では主観的経験に定位しつつも、同時に「神的なもの」を主観性を越え出た超越的なものとして捉えることを可能とするような哲学的な立場。

なぜ私が、この様なブログに多くの時間を割いているのかと言いますと、決して多くの「いいね!」が欲しくて、書いている訳ではありません。

言葉を変えると、「社会的な人気」や「お金」を得たくて書いている訳でもありません。

おそらく「社会的な人気」とは、逆効果な言説に溢れていることでしょう。

それは「この世的な(現生的な)」動機に基づくものではなく、『高次元の「存在」によって動機付けられた使命感(本願)』と言っても過言ではないのです。

それは、以前【「覚醒ゲーム」の自分史】に書いた様に、私の体験があまりにシュールで、多くの示唆に富んだ体験であると確信するからであり、いったい自分に何が起こったのかを理解したいとの思いからでもあります。

更には、「9次元存在」とのシンクロ(意味共鳴)が、常軌を逸しているかの様な希望に溢れているからでもあるのです。

世の中の状況は、自暴自棄になってしまう様なバイアスが掛かっており、健康的な状況からは程遠い気がしています。

私の心の中にも、安定的な現実が揺らいでいる感覚が、多くの日本人の心の乱れと共に、支配的になりつつあり、社会的な「闇落ちへの危機感」がヒシヒシと迫る中、自分に出来ることへの模索が始まっています。

何を真面目ぶってトンデモな事を書いているのかと、殆どの方が思われていると思いますが、「現実が揺らいでいる」との感覚が多くの方に共有されれば、ご理解いただけるかと思われます。

さて、「ハイデガーの思想」に精通されていれば、この「揺らいでいる現実」が、どの様な「存在の様態」によるものか理解しやすいと思われます。

なぜハイデガーなのかと訝しむ方も多いと思いますが、「欧米文化」からは見向きもされないこの偉大な思想家は、ある時期ナチズムに加担し、その社会的な地位をはく奪されたことで、謀らずも何が間違いだったのかを深く考察する機会を得ました。

そこに見えるのは、「文化性」と呼ばれる、「地球規模の場所性」に由来する「存在認識の違い」だったのです。

それでは、【「覚醒ゲーム」の自分史】に書いた私の体験と、ハイデガーの「存在に対する認識(存在への問い)」を擦り合わせながら、具体的に述べてみたいと思います。

私は哲学者ではありませんので、考察をサポートしてくれる「たすけ」が必要でした。

そしてその「たすけ」が、京都駅地下(ポルタ)のくまざわ書店で偶然見かけた(目が合った)書籍だったのです。

この様な「存在」からのサポートが、何故だかこの書店で多く起こります。過去においては、空海さんとのご縁を切っ掛けに「井筒俊彦」先生の書籍(「言語の根源と哲学の発生」や「意味の深みへ」)との出会いがありました。

そしてこの度は、「轟孝夫」氏の書籍(講談社現代新書)である、【ハイデガーの哲学『存在と時間』から後期の思索まで】です。

さて、ハイデガーの「存在」を考察するにあたって「存在者」との区別がとても重要です。

これは量子力学の不確定性原理をアナロジカルに使用すれば、とても理解が進みます。

ここで言う「存在者」とは、「確定した現実」であり、「存在」とは、「不確定な現実」と言うことが可能です。

従って「存在」とは、4D時空の属性を超えた「高次元へと繋がるルートが秘められた場」と表現することが可能なのです。

そしてハイデガーは、この「存在」を「様態」とも表現しました。

私の言葉では、「場の意識」の守備範囲がこれに当たります。

「場の意識」は、この属性を「意味性」と読み替えて、「意識エネルギー」として感知し、「最も意味性の符合した様態」へと現実を変換し誘導します。

日本語ではこれらを「存在の気配」と言いますが、「存在者」としての表現は未知数です。

そして「量子力学」では、これらを「存在確率」と見なしますが、決して「数学的可能性」の事ではないのです。

これらは、「物質(二元性)の極微の刹那」に設定された「時空の属性」なのです。

そこには常に「存在者の可能性」が存在します。

つまり「高次の存在」が供与する「意識エネルギー」の事を「意味性」と見なすのです。

そしてこれが、「場」と結び付いた「存在」そのものによる「影響力」なのです。

こう言った観点で、私の【「覚醒ゲーム」の自分史】を見渡すと、いろいろな事が見えて来るのです。

そう、一瞬にして私の「意識の反転」が起ったのも、この「永遠性の場所(高次元)」からやって来る「意味性(実在)のエネルギー」のお陰様(創造作用)なのです。

私はこれが、一般に言うスピリチュアルな「5次元の世界」の本質だと考えるのです。

それでは、実体験と照らし合わせてみましょう。

私がこの解釈に自信を持った切っ掛けは、先の書籍の中の以下の一文でした。

『ハイデガーは同時代の宗教心理学に一部、肯定的な側面も認めつつ、しかしながらそれが「神的なもの」に本来備わっている超越性を主観的なものへと解消することには反対していた。彼が必要としていたのは、ある意味では主観的経験に定位しつつも、同時に「神的なもの」を主観性を越え出た超越的なものとして捉えることを可能とするような哲学的な立場だった。』

ここで言う『ある意味では主観的経験に定位しつつも、同時に「神的なもの」を主観性を越え出た超越的なものとして捉える』認知に、「場の意識」による「意味性」の「場」の認知を見るのです。

この「意味性」とは、破格でおぼろげな「存在」が存在するのか、しないのかの事です。

私は、ある時期会社の上司から手酷いパワハラを受けていました。

そしてそのストレスは、性的コンプレックスとも相まって、私を闇落ちさせて、自堕落な逃避行為を繰り返させました。

ストレスから来る闇は現実にも投影を与え、死を予感させるギロチンの心象を現実の風景の中に見たり、猛烈な数の不吉なカラスの大群を変電所の上空に見たり、悍ましい夢から目覚めた直後の強烈なラップ音が、私の部屋の壁といい天井といい、周囲を軋ませまたりしました。

このラップ音は誇張でも何でもなく、悪夢から目を覚ますと、そう言った「物理現象」と思われる、生木を裂く様な破砕音が周囲に轟き渡っていたのです。

後にも先にも、この様な激しい「ラップ(心霊)現象」は、この時限りでしたが。。。

スピ嫁が言うには、「この人と寝ているとラップ音がうるさい」と思ったそうなのですが、私に言わせれば、その程度のパチパチ音は可愛いものなのです。

まあ、スピ嫁も余程の変わり者だと私は思います。

まあそれはさておいて、この様な状況でしたから、自身の「幸せな結婚」など夢また夢、まさに非現実的な願望でした。

この様な状況下で私が唯一拘ったのが、パワハラ上司への恨み辛みによる「悪意の増長」の回避でした。

何故だか、どうしても、上司に対して恨みの感情を抱けないのです。

パワハラ上司も歯車の一つ、本質は人知の及ばない「人間の嵯峨」にあると。。。

そう、半分諦めの様な、その「存在への憤り」とでも言いますか、あるはずもない、でもしっかり体験済みの何かに対する、自身の死さえ厭わない「尊厳」を掛けた憤りなのです。

つまり、隠れてばかりのそいつに、超ムカついたのです。

次回に続きます。

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