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「意識エネルギー」は、とっても面白い。

「意識エネルギー」を意識し始めると言っても、最初は半信半疑だろうと思います。

私の場合、何か「霊的な電波」の様なものを空中から聞き取る訳ではありませんし、五感を使った常識的な感覚から逸脱する訳でもありません。

もしそんなものが日常生活で聞こえ始めたら、臆病な私は「精神の病気」を疑うでしょう。

そんな事では全くないのです。

何らかの「偶然」の出来事が、常識の範囲を超えて、「意味の連続体」として体験されるのです。

例えば、5:55とか11:11とかの時間や、77-77や88-88と言ったナンバープレートを頻繁に見るなどがあります。

一般的なスピリチュアルでは、「エンジェルナンバー」などと言ったりしますが、まさにこう言った「偶然」が、割と頻繁に起こり始めます。

ですが「自意識過剰」になると、自分で数字を探してしまう弊害も発生し始めます。

あくまでも「無意識による偶然」が、この手の現象の基本なのです。

例えば、仕事で煮詰まり、他者が置き土産をした不具合への対応が、的を射たものか迷っていた状況がありました。

そんな不安の状況のなか、明け方近くに突然目が覚めて、5:55の時計を見たりします。

こう言った時、『ああこれで大丈夫なんだ』と確信できるのです。

そう言ったことを、過剰に大騒ぎせず、淡々と受け入れ、そして手放すのです。

時には、無意識に数字を探している自分に気付いて、唖然とする事さえあります。

「偶然」が大切だと思いながらも、結局自分で数字を探しているのではないかとガッカリするのです。

仏教の伝統では、この探している私を「ほんとうのわたし」と言って、区別して居るのです。

「覚醒」すると、こう言った境界の向こうの部分が、意識に昇り始め、そして戻されるのです。

あくまでもこの現象は、人間の集合的全体から見て、「自分の位相軸」だけの真実なのです。

だからこその「場の意識」なのです。

「関係の意識」と混同すると、無価値なものとなってしまいます。

だからと言って「普遍性」や「客観性」がないのかというと、それも違うのです。

ひとつの出来事には、それぞれの「自分の位相軸」で、異なった意味があるという事ですし、「場の意識」がシフトを起こせば、新たな「関係の意識」が生まれるのです。

こう言ったパズルのピースが、高次元で整合して、全体を形作って居るのです。

「覚醒」すると、こう言った感覚が、現実として実感を伴い始めます。

もう少し「コアな体験」で言うと、「秦氏」についての著作との出会いがありました。

その著作は、東北大学名誉教授 田中英道氏著、『京都はユダヤ人秦氏がつくった』です。

以前もここで、紹介したことがあります。

私はその著作を、京都駅の本屋で目に止まって買ってすぐ、とあるバスの中で、読み耽ることとなりました。

それは、「京都23系統、嵐山経由、苔寺鈴虫寺行き」のバスです。

そしてこの著作に登場する寺社仏閣や、所在地の多くが、この路線上に存在します。

私場合、再婚から現在の職場に至るまで、「秦氏のご縁の導き」が、「地縁」として頻繁に登場します。

それは既に、「導き」と表現するしかない、度をこした「偶然」に彩られています。

ここでも、前職の職場からの帰り道に、ほぼ毎回使用していたバスでの出来事なのです。それをリアルにバスで通りながら「シンクロ体験」するのです。

でもこの現象は、「自分の位相軸」だけの真実とも言えるのですが、ある種の「普遍性」や「客観性」を有する「現実化前の真実」として感じても居ます。

この書籍の中には、「夢見」の話が頻繁に登場します。

古事記をはじめ、多くの歴史書に登場する天皇の物語には、「夢見」を通して、頻繁に「意識エネルギー」との交流が、描かれて居ます。

私が通って居た天龍寺の座禅体験(龍門会)の書物(夢中問答集)の講義でも、それらしい体験が散見されます。

多くの学者や著名人が、単なる「文化的な物語」として、現在の社会常識に照らして解釈しますが、多くの人々の「場の意識」がシフトを起こせば、新たな「関係の意識」が活動を始め、それと同時に「新たな意味エネルギーの連続体としての解釈」が、創造されるのです。


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