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なぜポジティブ思考が問題なのか? - 深層心理の観点から

いまだに世間一般では、ポジティブシンキングが大切であると言う考え方が広がっています。

確かに、見た目は、ポジティブな態度や、ポジティブな言葉によって人生が好転すると言う話は非常にわかりやすい気がします。

しかし、自分の身の回りで起きていることを冷静に観察したり、マスメディアやインターネットで展開している社会の様子を見ると、普段からポジティブな態度や言葉を使っている人たちに限って、実際にやっている事は、その間逆であったり、多くの問題を引き起こしていることに気がつくと思います。

これについては、宇宙は常にバランスをもたらしているので、ポジティブなだけの人間はあり得ず、ポジティブなだけの出来事もあり得ず、それ故に、ポジティブであろうとすればするほどネガティブを引き寄せると言う説明も可能です。

そして、ポジティブシンキングに関しては、深層心理の観点から言っても、多くの問題をはらんでいるということが見えてきます。

どういうことかと言うと、ポジティブシンキングをすると言う事は、人間や物事に関して「こうあるべきである」と言う考え方が背景にあり、その裏では「こうあってはいけない」と言う考え方がセットになっているということです。

そして、「こうあるべきである」と言う考え方が強くなればなるほど、「こうあってはいけない」という考え方を深層心理の奥底に押し込めようとする傾向が強まると言うことです。

「こうあるべきである」と言う考え方は心理学的にはペルソナと呼ばれるそうです。いってみれば、これは仮面のようなもので、自分は「こうあるべきである」と思っている様々な仮面を状況に応じて付け替えたりしていると言われています。例えば、家庭では偉そうな口を叩くペルソナをつけている父親でも、会社では上司のもとでぺこぺこするペルソナをつけていたりするわけです。このペルソナをつける習慣がついて、そこに自分を同一視してしまうと、本当の自分が見えなくなってしまうという現象が起きやすくなるようです。

一方で、「こうあってはいけない」と言う考え方は、心理学的にはシャドーと呼ばれるそうです。「実存的変容」の著者である、天外伺朗さんによると、こうしたシャドーは、モンスターのようなものであり、私たちがいらないと思ってゴミ箱に捨てた「こうあってはいけない」と言う考え方が、蓋を開けてうじゃうじゃ面に飛び出そうとしているような感じだそうです。別の例えで言えば、人間に化けたタヌキが、後ろでぶら下げているしっぽのようなもので、そのシャドーを無理矢理隠す事はできないようです。

そして、何が起きるかというと、私たちは「こうあるべきだ」というペルソナを自分に当てはめ、一方で、「こうあってはいけない」と言うシャドーを相手に投影する現象が起きるようです。一言で言えば、ペルソナとシャドーの分離と言う事態が進行すると言うのです。そして、ペルソナが強大になればなるほど、シャドーも強大になるようなので、世間一般でポジティブを前面に押し出して、ポジティブのみを強調している人は、その分だけネガティブも強大なので、注意をしなければいけないようです。

したがって、私たちが個人間で体験している喧嘩も、国家間で体験している争いも、こうしたシャドーとペルソナの分離と言う側面があるそうです。たとえば、自分(たち)は「こうあるべきである」「自分(たち)は正義である」と言うペルソナを当てはめ、一方で、「こうあってはいけない」「あの人は悪である」というシャドーを相手に投影して、敵として攻撃すると言うメカニズムが展開するようです。

そう考えると、日本では浮気をした芸能人に対して激しいバッシングが起こりますが、これも自分の中に押し込めてきた「浮気はすべきではない」と言うシャドーを芸能人に投影していると言う側面があるのではないかと言うことが見えてきます。

さらには、恋愛の多くも、シャドーの投影の影響を色濃く受けていることがあるようです。例えば、相手が自分の「こうあるべき」に当てはまらないと考えると、相手を攻撃したり、別れたりする現象が起きたりするそうです。

そして、シャドーが強大になればなるほど、その反作用として、「理想の人間像」とか、「理想の異性像」のようなイメージを相手に投影する現象も起きるようです。当然、そうした「理想の人間像」や「理想の異性像」は、現実とかけ離れているため、多くの場合は幻滅する結果に終わると言われています。

したがって、こうしたことから導き出される結論は、「戦うか、逃げるか、死んだふりをするか」になるように思われるかもしれませんが、実際にそんなことをしても、ペルソナもシャドーもなくなりません。

だったらむしろ、しっかり自分のペルソナやシャドーを相対化して、俯瞰できる視点を持つことが重要ではないかと思うのです。そこが、ペルソナやシャドーを自分と同一視しないで、真我として生きる第一歩になるのではないかと思うのです。

別の言い方をすると、ペルソナやシャドーは、私たちがさらに充実した人生を送るための課題を示してくれる大切な存在であると言う見方もできると思います。その意味で、ペルソナやシャドーに心から感謝して抱きしめられたときに(統合できたときに)、初めて私たちの意識は次のレベルへと進化するのではないかと思いました。

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

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