mrmonaka

オーストラリアのブリスベン在住。公立小学校で日本語教師。日本の子どもたちとオーストラリ…

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オーストラリアのブリスベン在住。公立小学校で日本語教師。日本の子どもたちとオーストラリアの子どもたちを結びつけ、自由の相互承認の感度を磨く機会を提供。寅さん、スタートレック、哲学、映画が好き。

最近の記事

Shōgunと利他と訂正の力

今、全世界で話題沸騰中のドラマ「Shōgun」で、イギリス人の夫を守るために侍たちに銃を向ける藤の姿に涙が出た。 少し前に夫と子の命を奪われ、自害も許されぬまま、毛嫌いする異国の男と再婚させられた藤。 しかし、自分の運命を受け入れた藤の弾丸は封建性をもぶち抜き、世界中の視聴者のハートも一瞬でぶち抜いてしまった。 運命を受け入れると、人間は利他の心が生まれ、強くなれるのかもしれない。 そこで一句。 「Shōgun」で大地震に巻き込まれて刀を失った殿様にジョンが自らの刀

    • 女性の友情と傷と利他と

      (注:以下の文章は、私の個人的な感想であり、ボーヴォワールの友情論を直接紹介したものではありません) はじめに 「友情を哲学する」のボーヴォワールの友情論の読書会に参加した。 当時の時代背景もあったと想像できるが、心に傷を負っている存在としての女性とその友情論が展開していると思った。 もちろん傷だけが友情の条件ではないが、心が折れやすいこの時代に心に染みる友情論であったことは間違いない。 ⭐️ 傷と友情 心は普段見ることも触ることもできないが、「自分の大切に

      • 降りてくるまで待ってみる

        何か与えられた言葉がしっくりこない時は、何とか人に訊いたり、辞書を使って意識的にしっくりくる言葉を探すことも重要だが、一方で自分の自由意志ではどうしようもない時もあるので、そういう時はただしっくりくる言葉が「やってくる」のを待つしかない時もあるようだ。 私は毎日韻を踏んだダジャレのような五七五の句を作っているが、これも自分だけではどうにもならない営みであり、しっくり来る言葉が降りてくるのを待ったりしている。これも楽しい。 しっくりしたら動き出したくなってくる。 野中恒宏

        • 言葉は現実の影じゃない

          言葉が現実の影(代理)のようになってしまうと、本来持つ多義性が覆われてしまい、その生命力を失い、一面的な見方、感じ方、考え方が支配的になり、排他的・差別的な思想と結びついて戦争へと進んでしまう可能性が高くなる。 実は1つの言葉にはその歴史や文化の中で蓄積されてきた多様な役割や意味が込められている。そして、それは様々な文脈や状況によって、また、それを使う人間の価値観や信念によって、その意味合いが変化してくる。それは、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを思い起こすまでもなく誰でも

        Shōgunと利他と訂正の力

          やばいしあわせ - 幸せの時恐れを感じるわけ

          「しあわせは自分で獲得するものだ」とか、「幸せは自分の選択だ」という自由意志のみを強調する自己啓発っぽい幸福論に何かしっくりしないものを感じていた。 そこで、この「幸せ」についてちょっとだけ深掘りしてみた。 「しあわせ」には自分のしていることと運命が合致する意味合いが元々あったらしい。 つまり、「幸せ」の語源は、自由意志だけでなく、自由意志ではコントロールできない運命的なことと出会う事が、その本質条件として欠かせないものであったということが見えてくる。 ちなみに、「や

          やばいしあわせ - 幸せの時恐れを感じるわけ

          女性の友情 - ケアで深まる関係性

          昔から、女性の友情について、男性の友情と違うと感じていたが、それを言語化することができなかった。女性の友情と男性の友情は同じようでいて、どこか違うようで、何か自分の中で説明ができず、しっくり来なかったのだ。しかし、今回しっくりする考え方の1つに巡り会うことができた。 「友情を哲学する」という本の中でボーヴォワールの女性の友情論が論じられている。 全てに当てはまるとは思えないが、私の理解では、自分の大切なものを大切にされなかった「傷」を友情の契機にする女性がかなりいる印象を

          女性の友情 - ケアで深まる関係性

          尊敬と利他 - 新たな世界への連鎖の可能性

          日常生活の中でよく「尊敬」という言葉を聞くが、これが「目上の人や上司を尊敬しなさい」と言う文脈でのみ使われることに私は違和感を感じていた。私たちは、無条件に他者を尊敬できるものなのか。そうしたことが何かしっくり来なかったのだ。 そこで尊敬の語源を調べてみた。 尊敬を表わすrespectの語源は「振り返ること」「再び見る」ことらしい。 だから、ある人が、目の前の人を一度見て終わりにせず、再びその人のところに戻って他者尊重や利他の行為を示した時に、私達の中に生じる想いなのか

          尊敬と利他 - 新たな世界への連鎖の可能性

          心の傷 - 言語ゲームで見えるかも

          心の内面を理解し、その深い層を探ることは、私たちの永遠の課題です。心そのものは肉眼では見えないものの、私たちの振る舞いや言葉には、内面の世界が反映されています。この点において、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した「言語ゲーム」の概念は、心の傷を理解し、対話するための鍵を提供してくれるかもしれません。 ウィトゲンシュタインは、言語はその使用において意味を持つと主張しました。つまり、単語や文は、それが使用される状況や文脈に応じて様々な意味を持ち得るのです。この考えを心の

          心の傷 - 言語ゲームで見えるかも

          忘却の力

          外山滋比古氏の著書「こうやって、考える。」を読むと、忘却の意外な力に気づかされます。多くの人が忘れることをネガティブな現象と捉えがちですが、この本は我々に忘却が持つポジティブな側面を教えてくれます。忘れることによって、過去や他者に縛られず、自己を更新し、創造的に生きることができるのです。 確かに、すべてを忘れてしまうのはつらいことです。しかし、忘却には過去の束縛から自由になり、新たな自分を創造する力があります。変えることのできない過去や、他者の期待に振り回されるよりも、忘れ

          忘却の力

          認識的不正義を乗り越える二つの徳

          「認識的不正義」の第5章に触れて、私たちは認識的不正義を克服するために、真理を追求する知的徳と、配慮やケアを目指す倫理徳の両方が必要であることを深く理解しました。この洞察は、特に教育の場や社会的な対話において、重要な意味を持ちます。 例えば、学校における「問題行動」を示す生徒への対応を考えてみましょう。この生徒に対して、単に規律を課すのではなく、偏見を脇に置いてその生徒の言葉に耳を傾け、状況を正確に理解することが求められます。このプロセスは、真理を追求する知的な努力を必要と

          認識的不正義を乗り越える二つの徳

          傷とは

          近内悠太氏のシラスを通じて、心の傷について新たな理解を得ました。「心の傷とは、自分の大切にしていることが大切にされなかった、大切にできなかった、もう大切にできない、喪失した時に起きる」という洞察です。この言葉は、私たちが経験する傷の本質を明らかにしています。傷は、私たちの価値観や愛するもの、大切にしていることと密接に結びついています。 この理解から、傷つくことの本質的な意味を再考することができます。傷つくことを単に避けるべきネガティブな経験と捉えるのではなく、それは自分自身

          たまたま本質論

          ### ローティーの視点:本質の再考と対話の価値 リチャード・ローティーの哲学における「本質」の捉え方は、従来の思考に一石を投じます。彼によれば、本質は全ての人々や文化に共通する普遍的なものではなく、実は極めてローカルな、偶然にその人や人々が思いついた可能性があるものだと考えられます。この考え方は、本質に関する私たちの理解を根本から揺さぶります。 ローティーのこの視点は、本質が持つとされる不変の普遍性や必然性を問い直し、それをより柔軟で相対的なものとして捉え直します。これ

          たまたま本質論

          バザールとクラブ

          リチャード・ローティーは、私たちが日常で遭遇するコミュニケーションの空間について、興味深い観察を提供しています。彼によると、社会的規範やルール、慣習に従い、建前で会話をする「公的なバザール」と、ホンネで会話ができる「私的なクラブ」という、二つの異なる空間が存在します。この区分は、私たちのコミュニケーションの仕方に深い影響を与えるものです。 ローティーは、公的なバザールが必ずしも悪で、私的なクラブが善であるとは断定していません。その理由は、私的なクラブの空間が自己を創造する大

          バザールとクラブ

          水しぶきを見守る心: 目の前の波に論理は要らない

          子どもたちのふざけ合いは、海の波や水しぶきと同じく、自然の一部であり、予測不可能な美しさを持ちます。この比喩を用いることで、子どもたちの振る舞いに対して怒鳴ったり、その理由を問うことの浅はかさを浮き彫りにします。海の波が岸に押し寄せる時、それには論理的な理由は求められません。同様に、子どもたちの笑顔や笑い声、突発的なふざけ合いにも、その瞬間瞬間に論理的な理由を求めることは無意味です。 海の波や水しぶきが自然界の不可避な現象であるように、子どもたちのふざけ合いもまた、彼らの成

          水しぶきを見守る心: 目の前の波に論理は要らない

          あわいの泡を生きる - 自由意志の向こうに自由があった!

          あなたは自分の思考や行動が本当にどこから来るのか、考えたことはありますか? 画像の解像度を上げてみると、想像していたよりもずっと謎が深まるようなものです。そう、私たちのいわゆる「自由意志」の起源を深く掘り下げてみるのです。 このように想像してみてください:あなたが下す判断、あなたの心を横切る思考は、海底から上がってくる泡のようなものです。表面上では、泡の軌跡を辿ったり、それを上に押し上げた力について推測することができますが、その真の起源は暗闇に覆われたままです。 確かに

          あわいの泡を生きる - 自由意志の向こうに自由があった!

          さらば!自分探し!

          自己啓発の旅の途上では、多くの場合、「本当の自分」という概念を探求することから始まります。私たちはしばしば、自分自身を他人の価値観や期待に縛りつけずに生きることの重要性について耳にします。この考え方は、自己実現と自由への道を示す光となることがあります。 しかし、この旅を通じて私が学んだことは、自分自身に対して厳格な「価値の序列」を設けることの不可能性です。 私たちの人生には、様々な瞬間や段階があります。時には他人の期待に沿って行動することもありますし、時には独自の道を切り

          さらば!自分探し!