アイデンティティ

先日、職場の畑に、アメリカの大学生がひとり、ボランティアにやってきた。
ご両親はラオスの方で、タイ料理のレストランを経営。ご両親が高校生のときに渡米して開業したという。その後、そのひとは生まれた。
ラオスのことは、今までさほど考えたことがなかった。そういえば村上春樹さんが「ラオス」がつく本を出していたっけ。
話を聞くほどに、知らないことがこんなにもあるんだな、と思う。そんなの日常茶飯事なのだけれど。

ご両親はベトナム戦争後に渡米したということ。
ラオス人はタイでは差別されていた(いる?)ということ。
アメリカではラオスはあまり知られず、異なるけれど似ているタイ料理を提供していること。
ラオス料理は「苦い」のが特徴らしい。おそらく、ゴーヤのような苦い野菜が使われるのだと思う(最近「ウリ」についてもいろいろ面白いと思うことがあるので、それはまた後日。)。

とある同僚は、そのひとの話を聞いて
「ラオス人とラオス人の子どもなら、あなたはラオス人だね」と。
また別のひとは、そのひとの話を聞いて
「ラオス人の子だけど、アメリカで生まれたなら、あなたはアメリカ人だね」と。
数分の間で、わたしの目の前で展開された会話。当人がどう思ったかはわからないけれど、これはかなりセンシティブな会話だったのでは?と帰り道に考えていた。
誰から生まれた子どもであるのか、それとも、どこで生まれた子どもであるか。
「〇〇人」というのは、ひとによって、きっとアイデンティティが違うのだろう。
日本国内でだって、考えられる。
ご両親も北海道出身で、北海道で生まれ育ったら道産子?
ご両親は他の土地の生まれでも、北海道で生まれ育ったら道産子?
ご両親の出身に関係なく、子どもが道内で生まれ育ったら道産子?
道外で生まれても、道内で育ったら道産子?
だとしたら、何歳から道内で育ったら道産子?
道産子考だけでもこれだけ考えられる。
じゃあ、ご両親の出身国が違ったら、その子の「国」はどこになるんだろう。
じゃあ、ハーフの子どもだったら、その子は「何人」になるのだろう。
そんなことは、きっと、外のひとが決めることではないのだろう。
わざわざ、生活の中で話をすることでもないのだろうけれど、ふとした瞬間にひとを傷つけかねない。いつも考えないだけに、ふと考えた。

そのひとのパートナーは大学で昆布だとか海藻の研究をしているらしく、道北・羅臼へも行ったそうな。
そんな話をわたしは帰宅してから彼にしていた。
「羅臼にも行ったらしいよ~」
「あ~ラオスと言えば昆布だもんね」
「え?ラオスって昆布なの?」
「ラオスじゃないよ、羅臼の話」
羅臼とラオスを空耳する夜なのであった。

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