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ゲッベルスの日記は捏造?/日本人によるオリジナルのホロコースト否定論の紹介。

註:この記事は、はてなブログの方で書いた記事をただ単にこちらに自分自身で転載したものです。但し、転載の前に若干追記しておきます。「ゲッベルスの日記 捏造」でググると、2023年8月現在、一番トップは以下のページが検索ヒットするはずです。

これは、レビュー欄に以下のような記述があるためです。

RORONOA
5つ星のうち1.0 スターリン崇拝団体の妄想本
2017年3月23日に日本でレビュー済み
日共行動派とかいうスターリン崇拝団体の書いた本。
まず「ゲッペルス」じゃなくて「ゲッベルス」の間違いです。ここからしてこの本のいい加減さがわかります。
そのゲッベルス日記ですがカチンの森に関する記述があるのですが
この日記はソ連に捏造されたという説が通説ですのでそれを根拠にしてもって感じです。

そもそも当のソ連が自白してて、さらにその後ソ連も崩壊してんのにいまさらソ連を弁護して何の利益があるんだか。
真実は隠し通せない。まさに著者にブーメラン

そんな通説は一般にはありません。一部の人の間でだけ通説になっているものと考えられます。詳細については後述の転載部分で説明していますが、それを読むとわかると思いますが、ゲッベルスの日記に書かれたカチンの森に関する問題の記述の元は何かというと、実はゲッベルスの日記それ自体ではなく、日本の小説家である逢坂剛氏が一九九二年十一月号の『中央公論』で書いた記事が発端のようなのです。

で、以下のようにこれが日本のホロコースト否定派に伝わります。

  1. 逢坂剛氏が、カチンの森事件は既にソ連の犯行だと判明していた時期に、ゲッベルスの日記にそれとは間逆の事実(つまりドイツがやったと認めている)が書いてあることを知り、その記述に首を捻っているというようなことを中央公論に書く。

  2. それを、狂信的スターリニストが発見し、ネットに逢坂氏の記事のその一部を引用し、事実はドイツの犯行であった!のように書く。

  3. ある日本のホロコースト否定者が、欧米の歴史修正主義者の中にゲッベルスの日記に信憑性に疑義を呈している人が人がいることを知りつつ、しかしその疑義の示し方が弱いと感じたのか、ネット検索でその狂信的スターリニストのホームページを発見。

  4. カチンの森事件はソ連の犯行とソ連自身が証明していたので、カチンの森事件をドイツの犯行と記述したゲッベルスの日記こそが捏造に相違ないと判定した。

推測が混じっていますが、まぁこのような流れで間違いないと思われます。上で示したAmazon掲載の本も、もちろん読んではいませんが、2の人と同じ仲間なのかもしれません。ともかく、発端は逢坂氏の記事なのです。

ゲッベルスの日記にはホロコースト否定派には認めたくないような不味い記述があるので、ゲッベルスの日記が捏造であれば喜ばしいことになります。で、上のような流れで目出たく否定派にとっては、捏造として良さそうだと思われたのでしょう。

ところが、Amazonにある本の著者はどうしたかは知りませんが、おそらく誰一人、上の流れの中でゲッベルスの日記それ自体(と言っても原本それ自体ではなく出版物ですが)を確認した人はいないようです。唯一が逢坂氏です。でもですね、このような場合、普通は最低でも逢坂氏が参照したであろう出版物くらいは確認すべきなんじゃないでしょうか? 後述する通り、出版物名こそ明確にはされていないものの、逢坂氏はゲッベルスの日記には当時、四種類があったとは記述していたのですから、問題の部分が日本語版にはなく英語版だったとしても、調べようと思えば可能だったはずです。

というわけで、原典を確認していないという杜撰さはあるものの、このゲッベルスの日記捏造説は数少ないホロコースト否定論における日本オリジナル説ではあります。一応調べましたが、ゲッベルスの日記におけるカチンの森事件ドイツ犯行説を利用した捏造論は、少なくとも英語圏には見つかりませんでした。

実際そんなのあるわけありません。この説の大元になっている逢坂氏の疑問は、単純に逢坂氏の早とちりだったとしか考えられないからです。

では以下転載です。なお、単純なコピペですのではてなブログの方で勝手に入ってしまう語句説明用のテキストリンクがついていますが、関係ないリンクになっているものもありますのでご注意願います。


ゲッベルスの日記は捏造?


1.ゲッベルスの日記の出所

ヨーゼフ・ゲッベルスと言えば、ナチスドイツの国民啓蒙宣伝大臣として有名ですが、彼はまめに日記をつけていたことでも知られています。一般に、日記は歴史史料として非常に価値があるものとされることが多く、その理由は日記は通常、その日のことはすぐに記録されるからであり、しかも当事者自身が書いていることもありますし、さらには日記は普通は公開を前提としないプライベート的な意味合いも大きいため、それだけにやばいことが真実味を持って書かれていると考えられることが多いのです。ゲッベルスナチスドイツの政権中枢にいて、しかもヒトラーの側近の一人ですから、ナチスドイツの真実を知る上でゲッベルスの日記は極めて重要な史料なのです。

ゲッベルスの日記は1926年からつけられていたそうですが、うち、政権を取った時期の日記については、ゲッベルス自身がまとめて、1939年に出版しています。では残りの部分についてはどうなったのでしょうか? 実は、日記の原本はちょっと特殊な経緯を経ることになります。英語版ウィキペディアから以下にその解説を紹介します。

1944年11月までに、ゲッペルスにとってドイツが戦争に負けることは明らかだった。彼は日記にこう書いている: 「この美しい世界はなんと遠く、異質に見えることだろう。内心では、私はすでにこの世界から去っている」第三帝国の崩壊を生き延びられそうにないことを悟った彼は、マイクロフィルムという新しい技術を使って、彼の日記を安全に保管するためにコピーするよう命令を下した[11]。ベルリン中心部にあるゲッベルスのアパートに特別な暗室が作られ、ゲッベルスの速記者リヒャルト・オッテが作業を監督した[12]。

ゲッペルスは死の数時間前、1945年5月1日の午後に日記に最後の書き込みをしたが、それは保存されていなかった[要出典]。最後の日記は1945年4月9日のものである。マイクロフィルム化された日記の入ったガラス板の箱は、1945年4月にベルリンのすぐ西にあるポツダムに送られ、そこで埋葬された。オリジナルの手書きとタイプされた日記は梱包され、帝国首相官邸に保管された<[13]。これらの一部は現存し、戦後、日記の一部(主に戦時中のもの)を出版する基礎となった。ポツダムにあったガラス板の箱はソ連に発見され、モスクワに運ばれたが、1992年7月にイギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングが匿名の情報源からその存在と場所を知らされ、発見するまで未開封のままだった。そのとき初めて、日記全文の公開が可能になったのである。

これによるとゲッベルスの日記として知られる原稿には3種類あって、

  1. マイクロフィルム化された原稿

  2. マイクロフィルム化された日記の入ったガラス板の箱

  3. 手書き及びタイプされた紙原稿

があることになります。一応、ドイツ語版Wikipediaも確認しておきましょう。

ゲッペルスは1923年10月以降、定期的に日記をつけており、手書きで6,000から7,000ページ、口述筆記で50,000ページに及ぶ。赤軍の侵攻後、ベルリン帝国総統府のこれらの所蔵品はバラバラになった: 断片から、1942年から43年、1925年から26年、1945年の日記の版が1946年[158]、1948年、[159]、1960年[160]、1977年[161]に作成された。日記全体の約3分の1は1969年にマイクロフィルムソ連からドイツ民主共和国東ドイツ)に届き、残りの大部分はその後帝国首相官邸の廃墟で発見されたが、1972年に連邦共和国(西ドイツ)に売却されるまで秘匿されていた。手書きの断片はすべて、エルケ・フレーリッヒが現代史研究所(IfZ)を代表して編集した『Die Tagebücher von Joseph Goebbels. Sämtliche Fragmente(ヨーゼフ・ゲッベルスの日記。すべての断片)』(1987年)である[162]。フレーリッヒは、日記の内容を確認するために、ゲッベルスの側近の人々にインタビューを行った。その中には、1987年2月5日に彼の恋人リーダ・バーロヴァー、1987年4月1日に彼の妹マリア・カタリーナ・キミッヒが含まれている[163]。

冷戦終結後の1992年、エルケ・フレーリッヒはモスクワの公文書館で、ヨーゼフ・ゲッペルスマイクロフィッシュ法の前段階として日記を保存していたガラス板を発見した。<後略>

ドイツ語版Wikipediaでも日記の原本は同じですね。

しかし、発見者がデヴィッド・アーヴィングじゃなくてエルケ・フレーリッヒになってますね。どっちが正しいのかまでは知りません。但し、アーヴィングがソ連からそのガラス板を勝手に持ち出した事実は、リップシュタット裁判で争点の一つとして出てきますので、アーヴィングが発見者の一人であったことは間違いなさそうです。

しかしその後、学術的資料として、ゲッベルスの残した膨大な量の日記を出版物に編纂したのはエルケ・フレーリッヒ(他)です。

2.ゲッベルスの日記には何が書いてあるの?

私自身はゲッベルスの日記を読んだことがあるだなんて到底言えないレベルしか知りませんが、ホロコーストに関し、否定派にとっては非常にまずい記述があることは知っています。有名な1942年3月27日の一説は以下のとおりです。

ユダヤ人は今、ルブリン付近から始まって、東の方にある総督府から押し出されている。ここではかなり野蛮な処置が行われており、これ以上詳しく説明することはできないし、ユダヤ人自体もあまり残っていない。一般的には、60%は清算しなければならず、40%しか働かせることができないという結論になるだろう。この行動を実行している元ウィーンのガウライター(グロボクニク)は、かなり慎重に、あまり目立たないような手順でやっている。

時期と内容から、これは明らかにラインハルト作戦のことです。つまり、どうにかして否定派にはこれらのまずい記述を否定する動機があると言うことになります。

3.ゲッベルスの日記を捏造と主張したツイッタラ

Twitter上では有名なホロコースト否定派のこれです。

この種の投稿を初めて見たのは2021年だったかと思うのですが、一体どういうことなのか調べたくなって、その付加されているリンクを踏んでみました。すると、確か今年(2023年)の4月頃に存在しなくなった、かつては有名なホロコースト否定論サイトだった「ソフィアの逆転裁判」がネタ元だったのです。Webアーカイブには保存されていますので、当該部分をスクショしましょう。

当該ツイッタラーは、これもまた有名な否定派の小冊子であるリチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』の主張をガチで信じている人なのですが、反修正主義者の間では、デタラメばかり書いてあることはよく知られています。私も自分自身で調べて呆れ果ててしまいました。

それはさておき、上のハーウッド本の引用文はなんと書いてあるかと言うと、

ブラウニングによれば、ゲッペルスは「覚書」を書いたのではなく、「日記」を書いたのだという。「ゲッペルスは強制労働の必要性を強調するのではなく、正反対のことを言った;例えば、1942年3月27日には、ユダヤ人の60%は清算され、40%は強制労働に使われなければならないと書いている。ブラウニングは、ゲッペルス日記の原本の信憑性を確認したことはなかったが、市販の印刷物を受け入れていたことを認めた。歴史家のウェーバーは、ゲッベルスの日記全体がタイプライターで書かれていたため、その信憑性には大きな疑問があったと証言している。そのため、真偽を確認する方法がなかった。アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明した: オリジナルの布装版には、「原稿の信憑性を保証するものでも、否認するものでもない」という米国政府の声明が含まれていた。ブラウニングは、セラフィム報告などの他の文書に依拠して、ドイツ人がユダヤ人を労働力として利用することを優先しなかったことを示した。歴史家ウェーバーはこの意見に反対した。彼の見解では、ユダヤ人はドイツ軍にとって貴重な労働力の供給源であり、ヒムラー自身が、強制収容所の収容者を戦争生産にできるだけ広く利用するように命じていた」。

ブラウニングとは、日本では『普通の人々: ホロコーストと第101警察予備大隊』で有名なホロコースト研究者のクリストファー・ブラウニングのことです。ウェーバーとは、かつてはホロコースト否定派の総本山だった歴史評論研究所(IHR)の所長であるマーク・ウェーバーのことです。但し、『600万人』の頃はまだIHRはありませんでした。

ところで、先に当該ツイッタラーの主張の中にある「正史においてもこの日記は偽書とされている」について述べておきましょう。答えは、そんな事実はありません、で済みます。すでに、エルケ・フレーリッヒによって日記全てが編纂されている、と示したとおりです。多くの歴史家がそれを利用しています。また後述しますが、実はマーク・ウェーバーでさえ本物だと認めているのです。

さて、「ソフィア」の著者は「アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明」だけでは、偽造とするには根拠が薄いと思ったのかもしれません。他の論拠をどうにかネット検索を駆使して探し出してきたようです。それがツイッタラーの書いている「その複製には「カチンの森は我が国ドイツの仕業」と書かれ」です。

追記:ちなみにこの「カチンの森」の記述を根拠にしたゲッベルス日記の捏造説は調べた限りでは日本のネット上でのオリジナルの説のようです。結構頑張って検索してみましたが、少なくとも英語で検索する限りではそんな議論は全く見つかりませんでした。

カチンの森事件は、ソ連崩壊の直前、当時のソ連共産党書記長であったゴルバチョフが実施していた、情報公開政策であるグラスノスチで、カチンの森事件ソ連の犯行であるとそれを証明する文書を唐突に出して世界を驚かせていたのです。それまではソ連カチンの森事件ナチスドイツの仕業だと主張していました。従って、カチンの森事件の真犯人はソ連であるとわかっているので、ゲッベルスの記述は事実に反していることになります、もし本当にそう書いてあったのなら。

4.ほんとにゲッベルスは「カチンはドイツの仕業」と日記に書いたの?

で、例示したソフィアのページのその下を読んでいくと、以下のような参考資料の引用があります。

参考資料:ゲッペルス日記 1943年9月29日
一九九二年十一月号『中央公論』より
(アドレス:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/new_page_19.htm)
 ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だ
と呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の 一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」と。ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつ つ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。

ソフィアの著者はこれを見つけてきっと小躍りしたに違いありません(笑)。しかしまぁ、確かにそう書いてあるようには見えますが、その「アドレス」として示されたリンクはどうなのでしょう? ……と思って、Webアーカイブにあるそのページの冒頭を見て椅子からひっくり返りそうになりました。

少し読み進めるだけで眩暈がしそうな、スターリニストの共産主義者の主張が怒涛の如く続いています。「もっと他になかったの?」と思うところではありますが、このページから、「ゲッベルス」をよく間違えられる「ゲッペルス」に変更してテキスト検索すると……ありました。引用は上で済んでいますので再度は示しませんが、確かにそう書いてあります。

しかし、そこでさらに登場してくる小説家の逢坂剛氏がそんなことを書いたのは本当なの? がまだ未確認です。ええ、図書館行ってきました、わざわざそれだけのために(笑)

図書館で「コピーするまでもないな」と写真撮ってきただけだったのですけど、綴込みの部分がうまく撮れていないことに気づかず、失敗(笑)。しかし、確かにそう書いてありました。逢坂氏も、グラスノスチソ連の犯行説は確定しているのにこれは変だと「カチンの森の事件をナチス・ドイツの犯行と自認したのは、いったいどういうことなのだろうか。ゲッベルスの日記の全貌が明らかにな った今、ぜひ専門家のご意見を聞かせてほしいと思っている。」として首を捻っておられる様子です。

ただ、残念なことに、逢坂氏がいったいどのゲッベルスの日記資料を読んだのかまではこの記事には書いていなかったことです。

また、逢坂氏がその後、専門家の意見を聞いたのかどうかも定かではありません。この日記の記述部分に関する真相を確かめる方法はないのでしょうか? しかしゲッベルスの日記の当該部分を含む資料本は日本にはありません。一体どうすれば? 途方にくれるしかないのでしょうか?

……いえいえ真相を調べるのは意外と簡単でした。

5.英語版ウィキペディアにあるカチンの森事件の解説から。

逢坂氏も早合点過ぎるか、あるいは逢坂氏が参照したであろうゲッベルス日記の資料をちゃんと読んでいないのではないか、と思われます。逢坂氏は同記事で、1992年以前からすでに出版されていた四つの日記本のうち、その二つが「邦訳されていない」と不満を漏らしておられます。その邦訳されていないうちの一つの記述期間が1942年1月21日〜1943年12月9日まで、とご自身で記述されているのです。これは、逢坂氏の示している日記の範囲が含まれています。
英語版ウィキペディアカチン虐殺に、同じくその範囲に含まれている別の日のゲッベルスの日記に以下のような記述があるのです。

カティンの虐殺はナチス・ドイツにとって有益であり、ナチス・ドイツソ連の信用を失墜させるためにこれを利用した。1943年4月14日、ゲッペルスは日記にこう書いた:

「我々は今、GPUに殺された1万2000人のポーランド人将校の発見を、反ボリシェヴィキ宣伝のために大々的に利用している。我々は中立のジャーナリストとポーランドの知識人を彼らが発見された場所に送った。現在、前方から我々に届いている彼らの報告はぞっとするようなものである。総統はまた、われわれがドイツのマスコミに思い切ったニュースを流すことを許可した。私は、宣伝材料を可能な限り広く利用するように指示した。我々は2、3週間はこれで生活できるだろう」[53]。

まず、この脚注53は何かというと、「Goebbels, Joseph; Translated by Lochner, Louis (1948). The Goebbels Diaries (1942–1943). Doubleday & Company.」とあり、これは逢坂氏が同記事で邦訳本がないと不満を漏らしているうちの一冊なのです。上の引用で強調した「GPU」とは何かと言いますと、日本語では「国家政治局」や「国家政治保安本部」と呼びまして、あのKGBの前身組織の一つなのです。つまり、ゲッベルスははっきりここでカチンはソ連がやったと言っているのです。多分ですけど、逢坂氏が見ていたのはこの本のはずなので、同じ日記の中で、一方ではソ連がやったと言い、一方ではドイツがやったと書いていること、先ずはそれ自体がすでに矛盾していると気づくべきだったのです。

そして、問題の箇所のゲッベルスの日記の記述です。逢坂氏はちゃんとその直後を読まないといけなかったのです。同じWikipediaの記述から。

ヨーゼフ・ゲッペルスは1943年9月、ドイツ軍がカティン地区から撤退しなければならないと知らされると、日記にある予測を書いた。1943年9月29日の日記にはこうある:
「残念ながら、我々はカティンをあきらめなければならない。ボリシェヴィキは間違いなく、我々が12,000人のポーランド人将校を射殺したことをすぐに「発見」するだろう。このエピソードは、将来、われわれをかなり苦しめることになるだろう。ソビエトは間違いなく、できるだけ多くの集団墓地を発見し、それを我々のせいにするつもりだろう。」[53]。

これでもまだ、事情をよく知らない人はわかりにくいかもしれないので解説すると、当時、ドイツがカチンの森ポーランド将校が大量に埋葬されていることを発見すると、これを世界中に大々的に報道します。ゲッベルスは宣伝大臣ですから、それがお仕事なわけです。

その宣伝目的を解説すると、先ず、ポーランド亡命政府がロンドンにあり、発覚する前から、ソ連に捕虜になっていて解放されたはずのポーランド将校が行方不明になっていることを訴えていたのです。もちろんソ連が捕虜にしたことはわかっているのですから、ソ連が大きな疑惑の対象でした。ソ連は当然知らんぷりです。満州の方向にでも行ったんじゃないか?とかすっとぼけていたようです。

そうした状況の中で、先にソ連が占領していたカチンの森地域を、独ソ戦開始とともに一気に占領したドイツは、1942年末か1943年初頭ごろ(時期については諸説あり)にそれら大量埋葬墓を発見したのです。そこで、それを聞きつけたゲッベルスは計略を思い立ちます。同英語版Wikipediaによると、

ヨーゼフ・ゲッベルスはこの発見を、ポーランド、西側連合国、ソビエト連邦の間にくさびを打ち込み、ボリシェヴィズムの恐怖とそれに対する米英の従属に関するナチスプロパガンダ路線を補強するための優れた道具と考えた[48]。 徹底的な準備の後、4月13日、ベルリン帝国司令官は、スモレンスク近郊のカティンの森でドイツ軍が次のものを発見したと世界に放送した。

とあります。要は、連合国であった米英とソ連の分断を図ろうということです。ポーランド亡命政府がロンドンにあったのですから、この発見により、亡命政府は激おこで、「ソ連なんか切れ!」とチャーチルに言ったとか言わなかったとか。しかしゲッベルスの目論見は外れます。連合国の最優先事項はナチスドイツを打破することにあったからです。

ソ連ソ連で、カチンの虐殺はドイツのでっち上げだとアピールし続けました。そして、カチンの森ソ連が取り返すと、ゲッベルスが上の日記のように予想したとおり、今度は逆に「カチンの森はやはりドイツの仕業だった!」と宣伝を行うに至るのです。

こうして、歴史事実に即して解釈するだけで、ゲッベルスの日記に書かれたそれは、何の不思議でもないものになるのです。専門家の解説があった方が良いに越したことはありませんが、カチンの森事件に関する独ソの当時の反応を学ぶだけで、ど素人でもすぐわかる話なのです。

6.IHRのマーク・ウェーバーも本物だと認めていた。

さて、そのマーク・ウェーバーは確かにツンデル裁判の証人として出廷した時に、ゲッベルス日記について、ハーウッド本の記述に従うようなことを述べたようなのですが、実は完全にゲッベルスの日記を本物だと認めているとしか読めない発言を行なっています。なんと、その論述はIHRのサイトに今もあるのです。それは以下で読めますが、この記事の本題は、マーク・ウェーバーが、ホロコースト否定は成功していないとして「ホロコースト修正主義は助けになるのと同じくらい邪魔になることが証明されている。」とまで述べて当時物議を醸していたことにあります。

この中で、ゲッベルスの日記から三つほど、肯定的に引用されています。

以上、「アメリカ政府自身は、日記の正確性については一切責任を取らないと表明した」ことなど、一部はっきりさせられなかったことはありますが、ゲッベルスの日記が捏造であった証拠などかけらもないことくらいはお分かりいただけるかと思います。

たった百文字と少しのツイート文章に、実質八千文字も費やさないと論証できない(手間も結構かかってる、図書館調べとかw)のがなんだか納得できないものもありますが、ファクトチェックはこればかりは致し方ありません。


追記:実は、マーク・ウェーバーがもっとはっきりゲッベルスの日記の信憑性を認めているネットの記事があったのですが、見失ってしまいました。確か、その記事の中ではマーク・ウェーバー自身が出ている動画があって、そう話しているのです。見つけた方いらっしゃったらコメント欄にでもご教示願います。私自身どうやってそれを見つけたのか思い出せません(笑)。

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