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実家のある田舎に戻らないのは

なぜ、田舎暮らしに憧れて移住を検討するにあたって、生まれ故郷の那須を選択しなかったのか。それについて書きます。

私は大きな農家の長女として生まれました。母から聞いたところによると、私が生まれたとき、曾祖母が「女か…」とがっかりしていたそうで、同じ病院に入院していた親戚に男の子が生まれたことを心から羨ましがっていたとのことです。つまり、後継ぎである男が望まれていたのです、半世紀近く前のことです。

専業農家の実家は、当時4世代が同居する大家族でした。曾祖父母、祖父母、父母、私(と後に妹と弟)の最大9人家族で、先祖はお殿様に使える刀鍛冶だったそうで、屋号を「かじや」と呼ばれていました。廃藩置県で土地を割り当てられて農家となったと聞いています。その地域で初めて建築士が設計した2階建てを建てた、というのが祖父母の自慢で、働きづめに働いでお金を貯めたそうです。

曾祖母は賢い人で、怠け者の夫(曾祖父)を頼りにせず、お蚕さんを飼って織物を売って農作業の収入の足しにしていたとか、身寄りのない人を家に泊めて養っていたと聞いています。この「ひいばあちゃん」から私は読み書きを習い、幼稚園児にして文字を書いたり計算したりしていました。当時の田舎では珍しいことでした。祖母は、女学校で勉強したかったのに、「女に学問はいらない」と言われて20歳でお嫁に来たこと、弟たちは大学まで行ったことを、よく口にしていました。頭の良い人でした。母は、女子高の家政科を卒業後、企業に勤めていたのに、お見合いで兄の友人である父と結婚して農家の嫁になりました。朗らかで働き者でした。

子どもの頃の私の記憶では、女はいつも立ち働いていました。夜明け前から起きて農作業の準備をしてから朝食の支度。ごはんができてから起きてくる男。洗濯物を洗って干すのは女。田畑での仕事は一緒なのに、お茶の時間と昼食は女が支度する。日が暮れて、仕事から上がると夕飯の支度、後片付け、洗濯ものを取り込んでたたみ、子どもを寝かしつける。夕食から晩酌が始まる男。子どもが寝たあとは、終わらなかった農作業の片づけは女の仕事。そして、酔っぱらって大声をあげたり、くだをまいたり、時に手が出たりする男から逃げる女の様子を、子ども部屋から泣きべそで見ている私。

私の次に生まれたのも女でした。母はその後、流産したりして、体調が思わしくない時期があり、10年離れてようやく弟が生まれました。その10年間は、祖父母からの教育としつけは、家を継ぐものとして特に妹に向けられていました。(私はあたまでっかちで「横柄」なので、家を出ることを期待されてました)が、待望の「男」が生まれたとたん、「婿取り」を期待されていた8歳の妹は、「お嫁に行って良い」という扱いに変わり、子どもながらにかなり戸惑っていたようでした。

大事な大事な後継ぎ長男は、祖父母・両親の期待と愛情を一身に注がれて、かわいがられ、甘やかされて育ちました。(少なくても私と妹にはそう感じられました。)男が家を継ぐ家長だという「価値感」とうらはらに、現実に働いて家を切り盛りしているのは女だという事実と不条理感を、いつのまにか私は抱えていました。地区で催し物があっても、取り仕切るのは男の仕事。女は裏方仕事。子供会の会長は男で、副会長が女。小学校の児童会長も当然男で、鼓笛隊も指揮も男。おかしい、おかしい、おかしい。男の子よりも、私やAちゃん、Bちゃんたち女の子のほうがの方が賢いし、よく考えて動いているのに。

そんな思いが私をソーシャルワークにつなげたことは、また別の機会に。

私が20代の時に母と父が相次いで他界しました。それも長い話になるので、詳細は端折りますが、そのときに、親戚一同があつまって、家や田畑の財産は長男が継ぐものだから、私と妹は放棄するのが当然だ、と決めました。たったひとり、民法にしたがって分けるべきだと言ってくれたのは、母方の祖父の弟、東京で小学校の先生をしている人だけでした。私は別に財産が欲しいと思っていなかったので、まだ10代の弟の今後の人生のために、どうぞ、という気持ちで放棄しました。でも、その後数年間にわたって、実家の片付けや、水の使用権、税金や契約の手続き諸々、なにかにつけて「長女だから」と声がかかりました。もちろん、私だって大事な実家と弟のためだから、できる限りは手伝いました。でも、なんかおかしい、おかしい。民法上の権利を放棄させられたのに、大事な場面では最年長者として、責任を持たされている。私「女」ですよ。しきたりと違うんじゃないですか?

そこで、あるとき、「この家も土地も、全部弟のものですから、私には一切の権利はないんです。私に決断や行動を求めないでください。」と言いました。子どものころから家族ぐるみでお付き合いしてきた、地区のご近所のおじさんとおばさんに向かって。そして、自分でもすっきりと納得しました。そうだ、もう私はこの土地に所属していないんだ。

両親の残した田畑を、無農薬で野菜を作りたいという友人に貸して使ってもらおうとしたときには、弟は「いいよ」と言ったのに、祖母がそっけなく断ってしまった。名義は弟のものになっていても、この家は俺たちが建てた、この土地はご先祖様から引き継いできた、という強い愛着がある祖母。じゃあ、私が無農薬の農業に挑戦しようと相談したら、「そんなことできるわけない、迷惑だからやめてほしい」と言ったご近所さん。

なんだかね。そういうできごとが、徐々に私の心から、故郷の土地への愛情をそいでいきました。そういえば、10代の時には、地域の人がみんなが私のことを「鍛冶屋のミホちゃん」と知っていて、行動を見られていることが嫌で、アメリカの大学に逃げたのでした。生まれ育った環境は懐かしいし、豊かに育ててもらったことは感謝しているけれど、もう、私はここには属していない、という感覚がある。そういうわけで、親戚や知人がたくさんいる那須地区は、たまに帰る故郷のままにしておきます。

(写真は、田舎の秋の風景に似ているのでお借りしました。ありがとうございます。)

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