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戦艦大和と軍港「呉」の歴史

昨年12月、真珠湾攻撃から80周年ということで、ハワイ・オアフ島において追悼式が催されたほか、ドキュメンタリーやドラマなどの特番が相次いで放映されました。
 
真珠湾攻撃では、航空機によってアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えました。その華々しい戦果の裏側で、密かに建造が進められてきた巨大な軍艦が就役します。それは、東洋一の軍港と呼ばれた「呉」で建造された史上最大の戦艦「大和」でした。
 
海軍航空隊は、ハワイ・オアフ島の真珠湾に停泊中だったアメリカ太平洋艦隊の戦艦4隻を撃沈、3隻を大破させ、更にその2日後には、同じく海軍航空隊がマレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦2隻を撃沈し、それまで海戦の脇役とみられてきた航空機が主役に成り得ることを実証してみせました。
 
しかし、その後も日本は「大艦巨砲主義」から脱却できなかったことが敗戦の要因のひとつであったことは、多くの歴史研究家が指摘しているところですが、世界の大艦巨砲時代の幕あけと、戦艦大和が誕生するに至った当時の時代背景から遡ってみたいと思います。
 
1 戦艦大和誕生の背景
(1) 大艦巨砲時代の幕あけ
日露戦争にける日本海海戦での歴史的な勝利は、後世の海軍に大きな影響を及ぼし、特に米英などの主要海軍国は、戦艦の大型化に力を入れ始めました。そのような中、1906年にイギリスが30センチ砲を10門搭載したドレッドノート(Dreadnought)級(注1) を完成させます。これが大艦巨砲時代の幕あけとなって、各国は競って巨砲を備えた大型戦艦を造り始めたのです。
 
(注1) 日本では、ドレッドノートの頭文字を取って「弩級」戦艦と呼び、これを上回る戦艦を「超弩級」戦艦と呼んだ

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戦艦の区分と主砲の比較(Created by ISSA)

(2) 超弩級戦艦の誕生
1920年11月、日本も史上初めて41センチ砲を搭載する超弩級戦艦「長門」及びその2番艦「陸奥」を建造して世界を驚かせました(「長門」は連合艦隊旗艦を最も長期にわたり務め、終戦まで生き残り、日本海軍の象徴として国民に親しまれた)。
 
このことは、列強各国の警戒心を高め、戦艦建造が各国の国家予算を圧迫していたことと相まって、軍縮条約締結へと向かわせたのです。
 
(3) 海軍軍縮の時代へ
1921年にワシントンで軍縮会議が開かれ、日本は戦艦と空母の保有総トン数を米英の6割に抑えられました。その後、1930年のロンドン海軍軍縮会議でも、引き続き、日本は総トン数で米英比6割に制限されたほか、各国の新型艦の建造を1936年末まで禁ずること等が取り決められました。
 
しかし、そのことは41センチ砲を装備する戦艦は世界でも7隻(日:長門・陸奥、英:ネルソン・ロドニー、米:コロラド・メリーランド・ウェストバージニア)だけに制限される結果となり、これらの艦艇は「世界のビッグ7」と呼ばれるようになりました。
 
日本海軍は、1920年に軍艦保有トン数でも世界第3位となり、名実ともにイギリス海軍やアメリカ海軍と肩を並べる「世界三大海軍」と称されるにまで成長したのです。
 
(4) 巨大戦艦建造へ
そのような中、日本海軍ではロンドン海軍軍縮条約が失効する3年前の1933年には、既に「大和」の下地となる46センチ砲を搭載する巨大戦艦の建造案が海軍上層部に提言されていました。
 
46センチ砲は、当時、世界でも類を見ない巨砲であり、アメリカ海軍の次の新造艦は、パナマ運河を通航できる横幅の制約(32.3メートル)を受けるとみて、41センチを超える主砲を装備することは出来ないという計算があったのです。
 
ロンドン海軍軍縮条約失効後の1937年8⽉、⽶内光政海軍⼤⾂が正式に46センチ砲を搭載する巨大戦艦の建造を命じ、同年11⽉には広島の呉海軍工廠(後述)において起⼯されました。
 
2 海軍工廠の歴史
(1) 日本の四大軍港
時代は遡って明治初期、新政府は近代国家建設に向けて「富国強兵」をスローガンに掲げ、その一翼を担ったのが海軍でした。
 
明治政府は欧米列強と対等に渡り合うために艦艇の配備を急ぐとともに、急峻な山に囲まれ、外敵の侵入を拒み、艦艇の航行・停泊が自在にでき、水深の深い穏やかな入江など、厳しい地勢条件を満たす軍港として、1889年までに横須賀佐世保舞鶴の4か所が選定されました。
 
(2) 鎮守府と海軍工廠の発展
日本海軍創設の黎明期、その中心は横須賀にありました。「横須賀からみる日本開国史(後編)」でも述べたように、1853年のペリーの浦賀来航を機に日本に海軍創設の機運が高まりました。
 
ヴェルニーらフランス人技師らによって横須賀海軍工廠の前身である横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設され、ドライ・ドック、製鉄、艦船造修、赤レンガ、灯台、代数・幾何・解析・三角関数や治水など様々な知識・技術がもたらされ、横須賀は明治政府の殖産興業・富国強兵の模範となっていったのです。
 
1865年に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が起工され、1884年に横須賀に鎮守府(注2) が置かれると、以降、1889年に呉と佐世保、そして1901年に舞鶴でも鎮守府が開庁されました。この時、あわせて鎮守府内に「造船部」も創設され、横須賀で得られた知識や技術も広まっていきました(1903年、横須賀の造船所と各鎮守府の造船部は、一斉に「海軍工廠」に改称された)。
 
(注2) 鎮守府とは、いわば各軍港に置かれた海軍の本拠地であり、各海軍区を防備する一方、港湾施設、造船所、補給倉庫、病院、ライフライン等、多くの施設の運営・監督を行っていた

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四大軍港と鎮守府・海軍工廠の創設(Created by ISSA)

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そして日本海軍は、1911年にイギリスに発注した巡洋戦艦「金剛」を最後に、その後の軍艦は全て国産で賄えるにまで成長しました。
 
(3) 東洋一の軍港「呉」の誕生
これら四大軍港のうち、特に「呉」が軍港としての機能を飛躍的に発展させ、やがては「東洋一の軍港」と称されるようになっていったのです。
 
(4) 呉海軍工廠での大和建造
その東洋一の軍港にある呉海軍工廠で戦艦大和は建造されました。呉海軍工廠では、それまでに戦艦⻑⾨や空母⾚城等、数々の大型艦を排出していましたがドライ・ドックは巨大戦艦建造のために更に拡張され、米英に悟られないようにするため建造は秘密裏に進められました。
 
造船所を⾒下ろせる所には板塀が設けられ、鉄道も海側にはブラインドが下ろされ、ドックには艦の⻑さがわからないよう半分だけ屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ⼤量の(むしろ)が全⾯に張りめぐらされ、建造ドックを⾒下ろす⼭では憲兵が警備に当たっていました。

上段:戦艦大和を建造したドック(現・JMU)
下段:映画「この世界の片隅に」      

艦名を国名の古称や初期の王朝名にもつながる「大和」とすることが決まったのは1940年3月のことでした。そして、冒頭でも述べたとおり、真珠湾攻撃の8日後である1941年12月16日に戦艦大和は就役(注3)したのでした。
 
(注3) 当時、巨大戦艦を建造できる施設は、横須賀・呉・長崎の3か所に限られており、2番艦「武蔵」は、三菱長崎造船所で建造され(1942年8月5日就役)、3番艦「信濃」は、横須賀海軍工廠で建造された(ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったことに伴い信濃は空母に計画変更され、1944年10月に横須賀のドライ・ドック(現6号ドック)から出渠。呉に回航中、浜松沖でアメリカ潜水艦から雷撃を受け潮岬沖に没した)。
 
⼤和は、戦艦として史上最⼤の排⽔量にして、史上最⼤の3つの砲身から成る18インチ砲を3基も備え、防御⾯でも重要防御区画(バイタルパート)では対18インチ砲防御を施した軍艦でした。
 
設計はもちろんのこと、ブロック⼯法の採⽤など施⼯においても当時の⽇本の最⾼の技術が駆使され、更に空調設備も有していたことから、将兵の間では「大和ホテル」などと揶揄されていたようです。

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戦艦大和の性能諸元

大和の主砲は6階建ての構造で総重量が2,760トン、1隻の駆逐艦に匹敵する重さでした。砲身だけでも165トンもの重量があり、これを運搬するためにわざわざ10,000トン級の輸送船が新造されました。
 
発射試験は呉市の倉橋島東端にある亀ケ首試射場跡で行われ、就役直前の公試では徳山沖で斉射試験が行われました。
 
大和の砲弾は一発だけでも約1.5トンもの重量があり、発射時の衝撃音はすさまじく、付近の住民が驚愕したそうです。

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3 戦艦大和の活躍
(1) 連合艦隊の旗艦として
先述のとおり、真珠湾攻撃の8日後にあたる1941年12⽉16⽇に就役した戦艦大和は、翌1942年2⽉には⼭本五⼗六・海軍⼤将が司令長官として座乗する連合艦隊の旗艦となります。
 
(2) 戦艦大和の戦果
同年6⽉のミッドウェー作戦が戦艦大和の初陣となりました。この海戦では、日本海軍が優勢であったにも関わらず、戦艦大和は後方に居たため主砲の威力を発揮する機会には恵まれず、日本海軍は空母4隻を含む大敗を喫し、以後、日本海軍は劣勢に立たされてしまいます。
 
同年8月、戦艦大和はトラック島に進出しましたが、この頃になると、航空機の数が勝敗を決するようになっていて、このときも主砲の出番はありませんでした。
 
1944年6⽉、戦艦大和はマリアナ沖海戦に参加します。この頃になると、もう航空戦力では完全にアメリカ軍の方が上回っていました。戦艦大和は対空戦闘で主砲を放ちましたが、日本海軍はほとんど戦果を上げることができず、ここでも空母3隻を失います。
 
同年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸します。この頃になると、艦隊の上空を護衛する航空機はほぼ皆無でした。レイテ沖海戦では、その頭上にアメリカ軍機が襲い掛かります。魚雷20本を受けた大和型2番艦「武蔵」はシブヤン海に没し、日本海軍は壊滅状態に陥ります(このころ、神風特別攻撃隊が始まった)。
 
戦艦大和を含む日本海軍は、レイテ湾を目前に突入を断念しましたが、その翌日、戦艦大和は思いがけずアメリカ艦隊と会敵し、主砲が初めて威力を発揮し、アメリカ空母「ガンビア・ベイ」を撃沈することができました。
 
(3) 水上特攻部隊として
1945年3月26日に硫黄島守備隊が玉砕し、同年4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸します。同年4月5日、戦艦大和に沖縄方面航空作戦「天一号作戦」が発令されました。
 
この作戦の内容は、戦艦大和以下の艦隊は沖縄に突入し、艦を座礁させて浮き砲台として砲撃を行い、砲弾が尽きれば乗組員は陸戦隊として突撃せよ、というもので、事実上の「水上特攻作戦」でした。
 
「一億総特攻の魁(さきがけ)となれ」
 
当時、第二艦隊司令長官だった伊藤整一・海軍中将は、10隻の艦艇と7,000名もの将兵の命を奪うあまりに無謀な作戦に強硬に反対しましたが、最終的に連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介・海軍中将から「一億総特攻の魁となれ」と言われて「死に場所を与えられた」と悟り、それ以上は何も言わなかったそうです。
 
そして、翌4月6日、戦艦「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」の10隻から成る第二艦隊は、徳山の三田尻沖から沖縄に向けて出撃しました。

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豊後水道経由、太平洋上に出た艦隊は、アメリカ軍を欺くためいったん西へ転針します。しかし、その動きはアメリカ軍に察知されていました。7日正午過ぎ、アメリカ軍の航空隊による攻撃が始まります。
 
戦艦大和は、砲弾の中に数千個の焼夷弾を込めた三式弾で対空戦闘を準備していましたが、不運にもこの空域は厚い雲におおわれ、この期に及んでも主砲の威力を発揮することはできませんでした。
 
連合艦隊は大和を中心に、矢矧、磯風、初霜、冬月が輪陣形を組んでいましたが、敵機攻撃への回避行動で、陣形はすぐに崩れ、次第に敵機は大和の左舷に攻撃を集中し始めます。
 
その後もアメリカ軍の航空隊による攻撃が断続的に続きました。その攻撃は戦艦大和の左舷に集中します。次第に傾くも、注水システムが作動して一旦は持ち直したのですが、間もなく注水システムも限界に達し、艦は左へ左へと旋回し始め、終に戦艦大和は急速に傾いていきます。
 
伊藤中将は戦艦大和の沈没が避けられないと知り、作戦の中止と総員に離艦を命じました。かくして14時23分、不沈艦と呼ばれた大和は完全に転覆して沈没したのでした。

戦闘は2時間に及びましたが、沈みゆく戦艦大和から命からがら離艦できた海面上の生存者には、更なる苦難が待ち受けていました。
 
ある者は、大和の巨大な船体が沈むときに発生する大渦に呑み込まれ、ある者は、大和が水中で大爆発を起こしてまき散った鉄片が直撃し、死傷者は更に増加しました。
 
中には、大渦で引き込まれた海中から、大和の水中爆発によって一気に海面に押し上げられ、奇しくも生還できた者も居たそうです。
 
いずれにせよ、それらの生存者は海戦で生き残った駆逐艦「雪風」と「冬月」によって救助されるまでの数時間、重油にまみれた海上での漂流を余儀なくされたのです。
 
最終的に、大和の生存者は乗員3,332名のうち、わずか276名でした。
 
一方、戦艦大和の母港「呉」も、連日にわたりサイパン、テニアン、グアム方面からB-29が多数飛来し、造兵部を中心に施設を破壊しました。
 
海軍工廠関係者の死者数は約1,900名にのぼり、呉は焦土と化し、軍港としての機能を完全に失いました。

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上 段:旧・呉鎮守府司令長官官舎
中段左:旧・呉鎮守府庁舎    
中段中:歴史の見える丘     
中段右:赤レンガ倉庫群     
下段左:大和ミュージアム    
下段右:てつのくじら館     
(Photo by ISSA)     

4 教訓事項など
戦艦大和に係る教訓事項は、これまで多くの知識人によって語り尽くされ、今さら私が言えることは無いのですが、敢えて自分が思うことについて書き留めておきたいと思います。
 
(1) 新装備は時代遅れになるリスクを孕む
冒頭でも述べたとおり、日本は日本海海戦で大口径砲の有用性を、また真珠湾攻撃では航空機の有用性を示すなど、自らが「大艦巨砲」や「航空戦力」の優位性を世界に実証してみせたのですが、自らが思想・戦略の転換を図ることができなかったことが敗北の一因になったといわれています。
 
これは現代にも通ずる話で、新装備の研究開発には、時には10年単位の期間を必要とし「場合によっては開発当初のコンセプトは完成時には既に時代遅れのものとなっている」常にそのようなリスクを孕んでいるということです。
 
完成品が時代遅れの産物にならないようにするため、開発に際しては良く将来を見通して計画するとともに、情勢の変化に応じて適切に軌道修正する柔軟さと道筋を確保しておく必要があります。
 
換言すれば、「信念を持つことは大事だが、自分たちが走っている方向が正しいのかどうか、客観的に問い質す目を常に持ち続けることも大事」ということかもしれません。
 
(2) 人は誤った時流に流されやすい
戦艦大和が考案され建造された当時、日本は清・露両大国に勝利し、米英両大国とも肩を並べる「世界三大海軍」とまで称され、軍人のみならず国民までもがその栄光に酔いしれ、誰もがその力の象徴たる新しい軍艦を求めていた時代でした。
 
そのような国を挙げての絶頂期において、有頂天になることなく冷徹かつ客観的に情勢を見極めることが出来た人物のひとりが、冒頭で述べたドキュメンタリーでクローズアップされた山本五十六・海軍大将だったのでしょう。
 
山本大将は、日米の国力差を誰よりも痛感し、ひとたび事を構えれば総力戦になることや、結果として被害は甚大となることを誰よりも良く理解していました。
 
だからこそ、ロンドン軍縮会議では決裂ではなく、妥協してでも締結すべきと主張し、対米戦に向かわせ兼ねない日独伊三国軍事同盟にも異を唱えたのです。
 
先ずは、何としてでも対米開戦は食い止める。それでもやるなら、始めた戦争を如何に終わらせるか、そこまで道筋をつけておかねばならないーーー。
 
山本大将はそう考えていました。その結果が航空隊による真珠湾攻撃と、早期講和による和平締結という道筋でした。そのため、山本大将は戦艦大和のような巨大戦艦の建造には反対でした。来るべき航空戦の時代を見据えて、空母機動部隊の建造優先を主張したのです。
 
しかし、明晰な山本大将をもってしても、力の象徴たる巨大軍艦を求める時流に打ち勝つことはできませんでした。
 
個人の力には自ずと限界があります。国家・組織として「時流に惑わされない冷徹な意見が、確実に意思決定の俎上に載るような仕組みを平素から作っておく必要がある」のだと思います。
 
(3) 本質的な問題は何か
冒頭で「大艦巨砲主義から脱却できなかったことが敗戦の要因のひとつであった」と述べましたが、では、仮に大艦巨砲主義から脱却できていれば対米戦に勝利していたのでしょうか。
 
れは非常に難しい問題ですが、「アルキメデスの大戦」というフィクション映画で、ハッとさせられた場面がありました。

この映画は、老朽化した戦艦「金剛」の後継艦として、巨大戦艦を採用するか、或いは空母を採用するかというストーリーで展開していくのですが、巨大戦艦を推し進める平山造船中将(架空の人物)が、後半から不気味なほど存在感を増してきます。
 
その中で、彼が言い放った言葉は、概ね次のような内容でした。
 
巨大戦艦を造ろうと、造るまいと、戦争は起きるーーー
人々は日露戦争の勝利に未だ酔いしれている
列強に包囲されたとき、戦わないという選択を国民は許さないだろう
もはや、戦艦か空母かの選択が、事を左右する段階ではないのだ
 
アメリカと戦争すれば、日本は必ず負ける
だが、日本人は負け方を知らない人種だ
最期の一人まで戦い続けようとするだろう
そうなればこの国は確実に亡びる
 
その時、日本の象徴ともいうべき巨大戦艦があったらどうだろうか
この国が亡ぶ前に憑代(よりしろ)となって大海に沈む船だ
凄絶な最期を遂げ、この国を目覚めさせることが、この船に与えられた使命なのだ・・・
 
重量感あふれる役作りと相まって、これらの言葉が印象に残りました。
 
大艦巨砲主義から脱却できていれば、山本大将の思い描いた筋書き通りに対米戦に勝利できたかもしれませんが、その先を考えると、闘争に歯止めが効かなくなった国家が持続可能とは思えず、いずれは衰退の道を辿ることになっていたでしょう。
 
突き詰めれば、本質的な問題は冷徹な判断を狂わせた「国を挙げての驕り」にあったという一言に尽きると思います。
 
おわりに
世界一と呼ばれた戦艦大和と、東洋一の軍港と呼ばれた「呉」ーーー。いずれも、その大きさ、壮大さについ目を奪われがちになるのですが、忘れてはならないことは、巨大戦艦や巨大軍港を動かしていたのは「等身大の人間」であり、ひとりひとりが今を生きる私たちのように愛する郷土・家族・恋人・仲間を持っていたということです。

戦艦大和の乗員は、残された者に明るい未来の再建を託すという小さな灯(ともしび)を頼りに、「一億総特攻の魁」となる覚悟を決めることが出来たのです。
 
後世を生きる私たちは、未だ、その再建の途上にあるのかもしれません。常に誤った時流に惑わされず、国際情勢を冷徹に見極めながら、何が真(まこと)の平和なのかを考えなければいけない時代に生きているのです。
 
右にも、左にも、偏り過ぎれば国を危うくする。中道こそが国家安泰の道。