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鎗崎さんへのお返事

 鎗崎さんからコメントを頂いたので、お返事しようと思ったら、コメント欄が500字以内なんですね。
長すぎるとして弾かれました。(苦笑)
引用符も分かりにくいし・・・
コメント欄だと大変かな? ということで、記事投稿にて。
鎗崎さんも、出来ましたら、ご自身のnoteにてお返事ください。
文字制限のせいで、分割投稿するのも大変でしょうから。

さて、どこの記事のコメントかということで、下記に元記事をば。

記事だと引用が使えるので、見やすくて良いですね。

ということで、鎗崎さん。
熱弁を振るって頂き、ありがとうございます。
鎗崎さんにとって、満足のいく回答ではないかもしれませんが・・・

制度設計はともかく、官僚はビジョンを造ることが役割ではございません。
それの役割は、政治家であって、政治家を選ぶ私たちの仕事のはずです。

鎗崎さんコメントより

仰られるように、ビジョン(あるべき姿)を描き、官僚に仕事をさせるのは政治家の役目です。
このくだりについて、反論する気持ちはありません。
ただ、意図が伝わっていなかったのは、私の表現が拙かったのだろうと反省しております。

そこで、私の文意の補足をしておきますと、
「高級官僚」と「明確なビジョンと受け皿を制度設計」としています。
「高級官僚」となると、ただの官僚ではありません。
事務次官や局長クラスになり、政策立案の場に立ち会う立場になります。
会社でいえば部長や事業部長クラスになるわけですから、経営に対し相応の助言や提言が求められる立場になります。
それと同じで、行政の専門家として国益のためのビジョンを語る高級官僚は存在しておいた方が良いと考えています。

次に、「明確なビジョンと受け皿を制度設計」ですが、わざわざ「明確な」と書いているのは、政治家の出すビジョンをクリアに筋道の通った形に仕立て直す、という意味を持たせるためです。
そして、その過程で出てくる問題、不利益を受けるであろう人々を救い上げるための受け皿、こういうところまで目配り気配りした上で、制度設計をしないといけない。
でも、そこまで出来る人材って、そうそういませんので、難しいだろうな、として締めくくっている次第です。
ということで、上記の文に対する補足説明はおしまいです。

次に、

個人資産を保証していないのは、共産主義となるのではないでしょうか?
社会主義は再分配を重視するものであって、個人資産を保証していないとは言えないはずです。

鎗崎さんコメントより

これは、かなりややこしい部分になると思います。
そもそも社会主義も共産主義も複数の派閥があり、一本化されてないんですよね。だから、色んな説は存在します。
その上、日本の左翼政党は資本主義国の中で当選しなければいけない。
だから、私有財産を否定したら、議席数が確保できないんですよね。
ということで、私有財産を大々的に認める発言をしなければいけなくなるわけです。

そんなこともあって、

社会主義=私有財産を認める
共産主義=私有財産を認めない

みたいな図式が出来上がってきました。
まあ、それ自体は良いのです。それなりには筋が通っていますし。
重要なことは、

社会主義は、国家(行政機関)が財産を管理する。

という基本原則を持っていることです。

つまり、

行政機関がOKとするものは、私有財産と出来ます。
行政機関がNOとするものは、私有財産と出来ません。

例えば、中華人民共和国は、【土地の私有】を認めていません。
中国共産党(行政機関)が認める範囲だけが、私有財産として保有を許されているわけです。

何を許容するか? が、国家によって決められてしまうわけですから、本当に「私有財産権が国民に保証されている」といえるのでしょうか?
権力基盤が揺らぐ心配がなければ、為政者が私有財産の全面禁止を打ち出しても国民は逆らえないんですよね。
例えば、以下の記事があります。

このように、私有財産の範囲については国が決めるというのが社会主義です。
共産主義の場合、その範囲は民主的に決めることとされています。
各自の取り分は、高度に道徳水準が発達した国民一人一人の総意で決まるという格好になります。

ですから、

社会主義(国が決める) ⇔ 民主主義(民の総意で決める)
共産主義(まず共有財産)   ⇔ 資本主義(ずっと私有財産)

という図式の方がスッキリするかもしれませんね。
こうすれば、鎗崎さんの疑問も氷解するのではないでしょうか?

要は、社会主義も共産主義も「主権者が許す範囲で」私有財産を持つことが出来るということです。

そのため、社会主義は私有財産権がない、というお話になった次第です。

さて、私が最も驚いたのが、下記の一文です。

そして、現状のアメリカは、富裕層のみの個人資産しか保証していないと言っても過言ではありません。

鎗崎さんコメントより

アメリカが個人資産を保護しない(富裕層は保護する)というのは、初耳でした。にわかには信じがたいです。
ネタ元は、どういったものでしょうか? 
「過言ではない」ということですので、そう思うに至った何らかの出来事があったのでしょう。
その辺り、ご教示いただければ幸いです。


で、コメント欄にて書かれている内容から俯瞰してみると、

鎗崎さんは、【科学技術推し】のご意見の持ち主

という風に受け止めてよろしいでしょうか?

ものづくり屋の端くれとして、科学技術の重要性を否定する気はありません。
ですから、科学技術の大切さという点で異論反論をする気はありません。

【国力】とは【様々な力の総和】なので、【技術力】を根本に置く考え方もアリだと思います。
私は【人】が根本にあると考えているので、この辺は考え方の相違でしょう。
特に、どちらかが間違っているというお話でもないです。

さて、私の頭が悪いせいで理解が及ばなかった点が多々あるようです。
そこで、ここからは、質問を主体にお返事させて頂きますね。

出生率を上げることも、究極的には体外子宮が完成すれば、問題解決することではあります。
教育の無償化も、AIやオンライン技術の発展によって成立するものであるので、これも政策よりも科学技術と需要の問題となります。

鎗崎さんコメントより

「対外子宮」が完成すれば、出生率が上がるというご意見と受け取ってよろしいでしょうか?
そこには、子育てにかかる親の負担を軽減させることについては表現が入っていないのですが、当たり前のことなので省略したという解釈でよろしいでしょうか?
そして、ウエイトとして「親の負担軽減」<「体外子宮」という風に受け取れたのですが、解釈としてあっていますでしょうか?

また、教育の無償化は、鎗崎さんが過小評価された政策という手段によって、かなり進んでいます。

教育の無償化という親の負担軽減策において、

政策 < AIとオンライン技術の発展

という図式になるメカニズムが、私には思い描けませんでした。
どういう筋立てで、そういうお話になるのかを嚙み砕いてご教示いただければ、幸いです。


政策を多数決で決めることではなく、実体観察と生産技術に基づいて決めることが政治であると、国民は忘れてはなりません。

鎗崎さんコメントより

多数決は、政策決定の一つの手段となっております。
投票により政治家を選ぶ、ということも同じメカニズムですよね。
さて、国民一人一人が、実体観察と生産技術に基づいて決め、それを実現してくれそうな政治家に投票するとすれば、それもまた、(実体観察の総意として)政策を多数決で決めることになりませんか?

もちろん、政策決定が多数決である必要はありません。
何らかの方法(例えばクジ引き)で、政策決定権を持つ人間を選出しても良いです。
多数決は、大勢の意見の方が少数の意見よりも正しい可能性がある、という可能性に則った決定手段に過ぎませんから。

私には、政策決定の手段(多数決)の否定と、個人的な政策支持の基準(実体観察と生産技術に基づく)というお話の脈絡が理解できませんでした。

  • 多数の意見の中から支持の多いものを選択する「手段」=(多数決)

  • 支持する政策を決めるための「基準」=(実体観察と生産技術)

上記の二つは、同じ土俵で優劣を比較しあうものには思えないので、私は混乱しております。

多分、文字数の関係で鎗崎さんがその筋道を記述するのに不足があったのだろうと思います。
その辺りを噛み砕いてご教示いただければ幸いです。


元来の日本人は、イデオロギーや~主義に囚われず、実体観察を基盤とした問題解決(「もののあはれ」=実体観察=科学技術)になれていました。
海外の経済学を妄信しても非日本的な宗教社会の成立が確定するだけでしょう。

鎗崎さんコメントより

う~ん。ここは、少し反論します。
日本の歴史もまた主義やイデオロギー(政治思想・社会思想)の衝突が多かったと思うからです。

例えば、天皇による国の統治も日本という国の在り方をイデオロギーにまで昇華させたものだと思います。
神皇正統記や愚管抄なんかも典型的なイデオロギー論ですし・・・
幕末の尊王攘夷運動もそうでした。
鎗崎さんが題材とされている本居宣長も日本書紀を厳しく批判するイデオロギーを持っていたと思います。
もっとも、鎗崎さんの中では、日本人のそれは「囚われ」にまでは至っていないというお話なのかもしれません。
どこからどこまでを「囚われ」とするかは、個人的主観の影響が大きいので、もしそうだとするのなら、これはもう議論しても仕方がない部分になります。

また、実体とは、どちらかというと【西洋的】ですよね。
物事の根底にあって持続し続けるものとなりますし、それを観察というのも西洋の自然科学的思考スタイルに思われます。
もちろん、日本でも富永仲基のような人物がいますので、そういう思考スタイルがなかったわけではないのですが・・・

そして、本居宣長の【もののあはれ】は、『情緒的』なものと考えていましたので、実体観察のような『理性的』な表現とイコールになっている点で、驚きを覚えました。
個人的には、実体観察は、本居宣長が排した朱子学における【格物窮理】の考え方に近い気がするのですが、この辺り私の不勉強なんでしょうね。

もしよければ、、【もののあはれ】が【実体観察】とイコールになった過程を、ご教示いただければ幸いです。

あと、「海外の経済学を妄信しても非日本的な宗教社会の成立が確定するだけ」の箇所も良く分かりませんでした。

海外経済学の妄信 ⇒ 非日本的宗教社会の成立
というのが、頭の中で結びつきませんでした。
これについても、筋道を追ってご説明頂けますとありがたいです。

こうやって読み返してみると、鎗崎さんのように鋭い感性で物事を見れていない私の不勉強さを痛感しております。
頭の回転が追いついていなくて申し訳ないのですが、教えて頂ける範囲で結構ですので、ご教示ください。

なお、この記事の投稿だけでも4400字ぐらいいってますので、コメント欄での回答は大変かと思います。
鎗崎さんのnoteでお返事いただきましたら、拝読させて頂きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

しがないオッサンにサポートが頂けるとは、思ってはおりませんが、万が一、サポートして頂くようなことがあれば、研究用書籍の購入費に充当させて頂きます。